週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

神門5号墳 市原市惣社

東日本で最古の古墳、前方後円墳が定型化する前の前方後円形(纒向型前方後円墳、全長42.6m)の神門5号墳。



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県指定史跡 神門5号墳(ごうと5ごうふん)

市原市惣社5丁目5-1

邪馬台国時代、西暦3世紀になると、汎列島規模で地域間の交流が活発になります。この時期、国分寺台地区の中台遺跡、南中台遺跡、長平台遺跡、天神台遺跡などでは、近畿地方(奈良県滋賀県周辺)や北陸地方(福井県周辺)、東海地方(愛知県、静岡県周辺)、北関東地方(茨城県、栃木県周辺)などの特徴をもった土器が出土し、こうした地域からの移住や交流の地として、国分寺台地区は東日本でも拠点的な地域となりました。そして、これら遺跡群を中核とした地域統合の象徴として神門古墳群(3・4・5号墳)がつくられました。また、遺跡群の中心となる中台遺跡(上総国分僧寺跡下層)では、政祭の場と推定されている神殿風の掘立柱建物跡も発見されています。

現状、古墳群中最古の5号墳が、千葉県指定史跡として保存されています。5号墳は、昭和23年に発掘調査が行われ、墳頂部直下から埋葬施設が確認され、鉄剣・鉄鏃・ガラス玉・土器等が出土しました。その後、昭和58年に国分寺土地区画整理事業に伴って、改めて発掘調査が実施され、墳形などが明らかになりました。墳丘は、直径30〜32.5m、高さ5mの円丘部(後円部)と、その西側の長さ12mの突出部(前方部)からなる前方後円形であり、全長は42.6mで周囲に幅約6mの周溝をめぐらせています。前方部は短小であり、こうした墳形は、前方後円墳が定型化する以前の特徴です。このような古墳は、奈良県桜井市纒向古墳群を中心とし、全国的にも数が限られており、5号墳は、東日本においては最古の古墳です。西暦紀元後3世紀前半の造墓と推定されています。神門5号墳は、市原における国づくりの過程を明らかにするだけでは なく、古墳発生と前方後円墳の起源を考える上で極めて貴重な古墳です。

平成26年3月 市原市教育委員会

南田瓦窯跡
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南田瓦窯跡(みなみだかわらがまあと)

国指定史跡上総国分寺跡 指定年月日 昭和54年12月22日 追加指定

市原市惣社5丁目4番地5

この瓦窯は、上総国分寺の建て替えや屋根の補修を行う際に用いた瓦を焼いた、平安時代の有畦(ゆうけい)式平窯(ひらがま)です。

建物の屋根に瓦を葺くことは、6世紀後半に朝鮮半島から伝わった新しい習慣です。当初は寺院建築に限定されて用いられたので、瓦が多量に出土する遺跡の多くは、寺跡と考えられます。寺の中心部の主要施設や南大門などは瓦が葺かれましたが、国分寺でも全ての建物が瓦葺きだったわけでなく、周辺部の実用的な建物は、板葺きや草葺きだったようです。

上総国分寺の創建時には、ちはら台で見つかった川焼(かわやき)瓦窯跡などで焼かれた瓦を使いましたが、後に修理用に必要となる瓦は、この南田瓦窯や近隣の神門(ごうと)瓦窯など、国分寺の近くで焼いていました。窯の型式も、従来のように斜面の傾斜に沿って築かれた登窯(のぼりがま)から、南田瓦窯のように有畦式と呼ばれる畦(あぜ)状の構造をもつ焼成室のある平窯に変わっていきます。

南田瓦窯が築かれたのは9世紀前半で、調査によって4基が見つかり、このうちの1基を現地に保存しています。七重塔だけでも10万枚近い瓦が使われ、これに補修用の瓦を加えると膨大な数となり、国分寺の存続期間にはかなり頻繁に瓦が焼かれていたことでしょう。

令和3年3月 市原市教育委員会

文献

[1] 市原市埋蔵文化財調査センター 2016「邪馬台国時代のいちはら」『ここまでわかった市原の遺跡 第4回遺跡発表会』参考資料

朝霞市博物館の2019年の企画展で、出現期の古墳として神門3号墳の墳頂部出土土器と副葬品が展示された。
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松戸市立博物館の2021年の企画展で、出現期の古墳として神門3号墳の墳頂部出土土器と副葬品が展示された。
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