この日の「ミュージアムの周辺の古墳」巡りの最後に宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと)を訪れた。宥勝寺裏埴輪窯跡は、ミニ企画「ミュージアムの周辺の古墳」のパネルでは「1978年、早稲田大学が地中電気探査と試掘調査を行い、3基の埴輪窯の存在を確認」「2001年には本庄市教育委員会が範囲確認調査を実施、良好な状態で残る5基の埴輪窯を検出」「半地下式の登窯で円筒・家・翳(さしば)・靫(ゆぎ)・人物・馬などさまざまな種類の埴輪が出土」「操業年代は6世紀後半と推定」
埼玉県指定史跡 宥勝寺裏埴輪窯跡 平成21年3月17日指定
宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと)は、古墳に立て並べるための埴輪を焼いた窯の跡で、この解説板の正面に見える大久保山丘陵の斜面に所在しています。平成13年に、窯跡の範囲を確認するための調査を実施したところ、全部で五基の埴輪窯跡が、良好な状態で残されていることがわかりました。 窯の形は、丘陵斜面の傾斜を利用してつくられた半地下式の登り窯で、長き7メートル前後、幅1.5メートルほどの大きさがあります。一番下の部分に燃料の薪を入れるための焚口(たきぐち)がありその手前には作業を行うための平らな部分が広がっています。窯の内部には薪を燃やす部分や薪の炎で埴輪を焼く部分があり、一番上のところに煙を外に出すための穴が開いています。また、窯の周辺には材料となる粘土を採掘する場所や、埴輪を造形する工房などの施設もあったと考えられます。
窯のまわりからは、人物埴輪や馬形埴輪のほか、矢を入れる武具の一種「靫(ゆき)」、威儀具(いぎぐ)のひとつで大きな団扇(うちわ)のような形をした「翳(さしば)」などさまざまな形の埴輪が出土しました。 これらの遺物から、宥勝寺裏埴輪窯が操業していたのは、六世紀後半このと推定されています。この埴輪が立地する大久保山丘陵やその周辺の台地上には、数多くの古墳が築かれています。宥勝寺裏埴輪窯で焼かれた埴輪も、この近くの古墳に運ばれ、立て並べられたことが推定されます。
宥勝寺裏埴輪窯跡から出土した靫形埴輪は、本庄早稲田の杜ミュージアムで鑑賞した。
文献
[1] 埼玉県 1982「新編埼玉県史 資料編 2 原始・古代 弥生・古墳」
[2] 2003 『本庄市埋蔵文化財調査報告26:宥勝寺裏埴輪窯跡・宥勝寺北裏 :市内遺跡発掘調査報告書』本庄市教育委員会
[3] 2019 『本庄市の遺跡と出土文化財 第2版』本庄市教育委員会
この日は北風が強く、雲がなかったので、山々がよく見えた。
中央に赤城山(1828m)
左に男体山(2486m)