宮野辺(宮目)神社
南門
前殿
東脇殿
西脇殿
西脇殿
長大な南北棟の建物であり、国府の役人が事務を行った施設です。発掘調査により延暦10(791)年頃焼失したことを確認しています。東側に建てられた同規模の東脇殿とは、前殿を中心に東西対称の位置関係になっています。発掘調査により確認した建物跡は、奈良時代前期から平安時代前期のもので、この間に4期の変遷があります。
また、西脇殿の西側塀外部には、当時のゴミを捨てた穴が発見され、木簡(紙の代用とされた板の筆記具)やその削り屑が多数見つかりました。本簡が出土することは、当時の役所で、これを使った事務か行なわれたことを物語るものであり、その場所は最寄りの役所建物跡として、西脇殿が想定されます。出土した木簡は、記された年号が延暦9年か10年に限られます。従って、この穴を埋めている焼土つまり西脇殿焼失も延暦10年ころと、推定されます。
西脇殿の位置に建てられている藤棚は、奈良時代後期(II期)の西脇殿について柱の位置、太さ、軒の高さを復元しながら製作したものです。また、建物内部には、床板が張られていたことがわかっており、床を支えた柱位置も表示いたしました。
(Ⅰ期) 掘立柱建物、東西約4.8m、南北約45.0m
(Ⅱ期) 掘立柱瓦葺建物、東西約4.8m、南北約45.0m 焼失
(III期) 礎石立建物、 東西約4.8m、 南北約45.0m
(IV期) 掘立柱建物、 東西約5.4m、 南北約43.8m
前殿と東脇殿
東脇殿
東脇殿
長大な南北棟の建物であり、国府の役人が事務を行った施設です。発掘調査により延暦10(791)年頃焼失したことを確認しています。西側に建てられた同規模の西脇殿とは、前殿を中心に東西対象の位置関係になっています。
発掘調査により確認した建物跡は、奈良時代前期から平安時代前期のもので、この間に4期の変遷があります。また、これに先行する竪穴住居跡を建物直下で確認しています。
ここに建てられている藤棚は、奈良時代後期(Ⅱ期)の東脇殿の一部について柱の位置、太さ、軒の高さを復元しながら製作したものです。建物の北部は宮目神社境内となるため、位置のみの表示としました。 また、建物内部には、床板が張られていたことがわかっており、床を支えた位置も表示いたしました。
(I期) 掘立柱建物、東西約4.8m、南北約45.0m
(Ⅱ期) 掘立柱瓦葺建物、東西約4.8m、南北約45.0m 焼失
(Ⅲ期) 礎石立建物、東西約4.8m、南北約45.0m
(IV期) 掘立柱建物、東西約5.4m、南北約43.8m
前殿
前殿
国庁域内の中央にあり、国府の役人が朝賀や元旦の儀式などを行った施設です。 発掘調査により確認した建物跡は、 奈良時代前期から後期(約1200〜1100年前)のものまで、この間に4期の変遷があります。
復元建物は奈良時代後期(IIB期)のもので、材料は主に檜を用いています。規模は東西約24.9m、南北約8.3m、約6.3mです。建物復元にあたっては、法隆寺食堂、唐招提寺講堂(旧平城宮朝集殿)を参考とし、八葉複弁蓮華文の軒平瓦・三重弧文・軒丸瓦・鬼瓦は出土品により復元しました。 建築部材加工にあたっては、斧(おの)・手斧・槍鉋など古代の工具を用いました。 なお、前殿の北側(宮目神社境内)には、正殿が建っていたと推定されます。
(Ⅰ期) 掘立柱建物、東西 9.0m、 南北4.8m、2棟並立
(IIA期) 掘立柱建物、東西22.2m、 南北5.4m
(IIB期) 礎石立瓦葺建物、東西22.2m、南北5.4m
(Ⅲ期) 礎石立建物、東西13.2m、南北6.6m
前殿と西脇殿
下野国庁跡資料館
国指定史跡「下野国庁跡」
The Site of the Ancient Shimotsuke Provincial Government
下野国庁は律令制下(奈良・平安時代)における地方統制の中核として設置された役所であり、同時に政治、経済、交易等のいわば下野国の古代文化を集約する唯一の地方拠点でありました。
国庁の中心である国庁域は、奈良時代後期には東西南北約95メートルあり、周囲を板塀に囲まれ、南央部に「南門」、中心部に「前殿」、その両側に「東脇殿」 「西脇殿」 が造営されていました。
昭和51年から行われた発掘調査では、国庁の建物群や区画施設(塀、北門)、中心道路の南大路、同国庁館(推定)等の遺構が確認され、木簡、漆紙文書、土器、瓦などの貴重な品々が出土しました。
その全域が明らかである国庁跡は全国的にも貴重であり、昭和57年に国指定史跡に指定されました。
平成6年には、前殿が当時の姿に復元され、その後、平成8年に敷地内に下野国庁跡資料館が開館して出土品が無料公開されております。