週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

埼玉古墳群の長野地区の古墳 (再訪) 行田市長野

11月19日に開催された史跡探訪「行田市内の史跡を巡る」の続き。若王子古墳跡の次に白山古墳と白山愛宕山古墳を訪ねた。

白山古墳

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白山古墳

この古墳は、埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳です。墳丘の一部に白山姫神社がまつられていて、その東側に横穴式石室の奥壁と思われる緑泥片岩が露出しています。また、社殿前の石段右手に積まれている人頭大の角閃石安山岩も、石室の壁材であると言われています。 発掘調査が行われていないため、不明な点が多い古墳ですが、7世紀前半頃の築造と推測されており、埼玉古墳群終末期に位置する古墳であると考えられています。

7世紀前半としては卓越した規模の古墳で、埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と、古墳群の終焉を考える上で非常に重要な古墳であると思われます。

行田市教育委員会

白山愛宕山古墳


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白山愛宕山古墳

この説明板の前に位置する小さな塚が白山愛宕山古墳です。 白山愛宕山古墳は、埼玉古墳群(白山古墳群)を構成する小円墳で、墳頂部に愛宕神社が祀られていることから、地元 では「愛宕山」と呼ばれています。

これまでに2度発掘調査が行われており、その結果、6世紀中頃に築かれた直径約27m(周溝も含めると直径約40m)の円墳であることが判明しています。

発掘調査では周溝から円筒埴輪、人物埴輪、8世紀中頃のものと思われる須恵器等が出土しており、築かれた当時は、 墳丘を一巡するように埴輪が樹てられていたものと思われます。 残念ながら墳丘が大きく崩されて失われており、現在では墳丘の約1/4程度が残るのみとなっています。

埼玉古墳群の大型古墳の陪塚的な小円墳ではないかと思われます。

周辺には他にも同じような小円墳が多く築かれていたようですが、本古墳とその北側に位置する神明山古墳以外は全て墳丘が崩されて失われており、 墳丘が残る数少ない貴重な 小円墳と言えます。

平成24年 行田市教育委員会

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白山愛宕山古墳 (白山4号墳)

道路沿いに墳丘の一部が残る白山愛宕山古墳は、埼玉古墳群に属する古墳の一つです。この古墳については、これまでに4回に 渡る発掘調査が行われており、周溝の外径約39m、内径約26mの円墳であることが判明しています。発掘調査では、周溝内から円筒埴輪、朝顔形埴輪、人物・馬・鶏などの形象埴輪、土師器の坏・高坏・壺・鉢など、須恵器の甕・𤭯(はそう)・ 高坏などが多数出土しており、出土した須恵器の年代などから、稲荷山古墳とほぼ同時期の5世紀末頃に築造された古墳であると思われます。

白山愛宕山古墳は、稲荷山古墳などと共に埼玉古墳群の中では最初期に築造された古墳のひとつであり、埼玉古墳群の始まりや、近接する大型前方後円墳である稲荷山古墳との関係を考える上で重要な古墳です。残念ながら古墳の墳丘の大半が崩され、周溝部分にも道路等開発が及んでいますが、地元の方々や久伊豆神社の関係者の皆様のご協力を得て、今回古墳の一部を「白山愛宕山古墳歴史の広場」として保存・整備致しました。「白山愛宕山古墳歴史の広場」となっているのは、 右の図のように古墳南東側の約1/4の範囲で、周溝を盛土保存し、周溝の内側と外側の位置をレンガで点線状に示しています。

令和2年3月 行田市教育委員会

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埼玉古墳群の長野地区の古墳

埼玉古墳群は、今から約1400〜1500年前の5世紀末頃〜7世紀前半にかけて築かれた東日本最大規模を誇る古墳群です。埼玉古墳群はさきたま風土記の丘の園中だけでなく、その周辺にも広がっています。

特に稲荷山古墳北側の長野地区白山・大下地域には、白山古墳・白山愛宕山古墳・神明山古墳が現存し、発掘調査等で他に8基の古墳跡の存在が確認されています。その他にも地元で伝承がある等未確認の古墳が7基あり、かつては多数の古墳がこの地域に存在していたものと思われます。

これら長野地区の古墳は、埼玉地区との境を流れていた旧忍川の流路部分に、古代に谷があったと考えられていたことから、埼玉古墳群とは別の白山古墳群の古墳とする考えもありました。しかしながら近年の発掘調査等で、稲荷山古墳北側の旧忍川の流路部分にかつて浅い窪地あったことが確認されると共に、それが埋まった後に古墳が築かれているたことが判明し、長野地区の古墳も埼玉地区から続く埼玉古墳群の一部であることが明確になりました。

埼玉古墳群は稲荷山古墳を皮切りに、5世紀末頃〜6世紀末頃にかけて埼玉地区に9基の大型古墳が築かれて行きます。並行して長野地区〜埼玉地区北端部には、小型・中型の円墳が多く築かれます。 そして7世紀前半には、大型の円墳である白山古墳と浅間塚古墳が長野地区と埼玉地区の古墳群の両端に築かれています。

埼玉古墳群と言うと、巨大な古墳ばかりが注目されますが、それと並行して築かれた長野地区などの小型・中型の古墳や白山古墳などについても目を向けて、古墳群全体の様相、性格について考えて行く必要があると言えそうです。

白山古墳

白山古墳 埼玉古墳群の一番北側に位置する墳丘の直径が約50m、高さ57mの大型の円墳です。 墳丘に白山姫神社が祀られていることからその名がついています。

地元では、この古墳を掘ろうとすると火事が起きるとの言い伝えがあり、昭和34年(1959) に発掘 調査を行おうとした所、 その直前に地元で火事起き、調査が中止されています。 そうしたこともあってこれまでに測量調査が行われただけで、発想調査はされていませんが、 くさいへん 埴輪の散布が見られないこと、 墳丘上に石室の壁材と思われる緑泥片岩が露出し、 石室の石材と かくせんせきあんぎんせん、 おもわれる6世紀前半の群馬県榛名山二ツ岳の噴火で露出した角閃石安山岩の散布も見られることなどから、 横穴式石室を持つ7世紀前半頃に築造された古墳ではないかと考えられています。

白山2号墳

白山2号墳は、白山古墳のすぐ南側に隣接する古墳跡です。 平成5年(1993) に西側の一部が発掘調査されています。

じゅうこうないけい 調査の結果、 本古墳は直径 (周溝内径) 約30mの円墳と推定され、 古墳周溝の西部に古墳へと 通じる通路(ブリッジ)が造り出されていることが確認されました。 そしてブリッジとその両側の 溝から人物、馬形埴輪、太刀形埴輪・靭形埴輪・鉾形埴輪などの器財埴輪、円筒埴輪などが数多く出土しました。

これらの埴輪は 埼玉古墳群の多くの古墳と同様に鴻巣市の生出塚輪窯で作られたものです。

同埴輪の製品は広範囲に供給されており、 本古墳出土の頭巾をかぶった人物埴輪とよく似た埴輪東京北区の赤羽台4号墳から出土しています。 本古墳は出土埴輪の年代から6世紀末頃に築造されたと思われます。

白山愛宕山古墳

あたごいんじゃ 白山愛宕山古墳は稲荷山古墳の北東150mの位置にある円墳で墳頂に愛宕神社が祀られています。 本古墳については、4回に渡る発掘調査が行われており、 直径約26mの円墳で、現在は墳丘の一 部だけが残っていることが判明しています。

平成27年(2015) に行われた2回の調査では、 古墳周溝の南西部に古墳へと通じる通路(ブリッ ジ) が造り出されていることが確認され、その南側の周溝墳丘寄りから土師器の坏・高坏・ 豊・ 鉢須恵器・高坏・はそうなどの土器がまとまって出土しましたまた周溝内の他の部分 から円筒埴輪朝顔形円筒埴輪、 人物埴輪馬形埴輪形埴輪などの形象埴輪が多数出土して います。 これら出土遺物の年代や、 周溝内に5世紀末頃の群馬県榛名山二ツ岳の噴火で飛来した 火山灰が堆積していたことなどから、この古墳は5世紀末頃に築造されたと思われます。 いしょう

神明山古墳

神明山古墳は、白山愛宕山古墳の北側に位置する墳丘が残る古墳です。 正式な発掘調査は行わ れていませんが、 平成28年 (2015) に周辺の試掘調査を行った際に周溝が確認され、 直径約444 mの円墳であると推定されています。

詳細な年代は不明ですが、試掘調査で埴輪が出土していることから。 6世紀代に築造された古墳 であると思われます。

残念ながら墳丘が大きく破壊されていますが、数少ない丘が残る古墳であり、貴重であると 思われます。

人物埴輪、(左)赤羽台4号墳出土、(右)白山2号墳出土
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