週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

『縄文時代の歴史 (講談社現代新書)』山田康弘著

山田康弘著の『縄文時代の歴史 (講談社現代新書)』を了読。古墳巡りを始めてから、縄文時代についても、貝塚や遺跡や博物館の企画展などに足を運んだので断片的な知識は得られたが、なかなか全体像がつかめない。そこで、縄文時代について学びたいと考えていた。本書の「はじめに」に「本書は、多様で奥深い縄文時代・文化を知るために、手軽に読むことのできる概説書を目指したもの」とあり、今の私に最適な1冊だった。

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現在、縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に区分されている。本書では、I期(草創期)、II期(早期)、III期(前期、中期)、IV期(後期、晩期)の4時期区分を採用して、章立てとする。なお、縄文時代縄文文化について、時代と文化が一対一で対応するのは日本の歴史学の特殊な事情で、本来、縄文文化は非常に多様で、時期と地域によって大きな変異があり、縄文文化は時期や地域によって異なる文化の総体で、縄文時代の中には、いくつもの文化が存在したと考えられるが、説明概念としての利便性から、本書でも縄文時代・文化という言葉を用いて記述するとのこと。

I期(草創期)

旧石器文化から典型的とされる縄文文化への移行期。日本列島域における最古の土器は青森県大平山元 Ⅰ遺跡から出土した無文の鉢形ないしは深鉢形土器(約16,500年前)で、煮沸具(鍋)と推定されている。世界で最古の土器とされるものは中国湖南省の玉蟾岩洞穴から出土した土器(約18,000年前)。縄文土器の名前はE・S・モース大森貝塚から出土した土器を「cord marked pottery」と報告、白井光太郎が縄紋と訳した。モースは縄文が施されていない土器を含めて総称として「cord marked pottery」を使用した。縄文土器には機能性を追求するデザインと、突起などの繁縟な形態・文様を持つデザインの2つの方向性が器形と文様の「かたち」の本質を表し、「かたち」の多様性が縄文土器独自の造形美を産み出しているという。

草創期のフェーズ1: 約16,500〜15,000年前の温暖化が始まらない寒冷期。文様のない無文土器群。

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草創期のフェーズ2: 約15,000〜13,000年前、温暖化が始まり針葉樹林から落葉広葉樹林(ナラ類)に置き換わる。隆起線文土器群。

草創期のフェーズ3: 約13,000〜11,500年前の寒の戻り(ヤンガードリアス期)。爪形文土器群、多縄文土器群、表裏縄文土器群。

II期(早期)

約11,600年前には、気温が突然7度ほど上昇し、地質年代完新世に突入した。海水面は現在よりも約40メートルも低い状況から、約7,000年前には現在に近い高さまで急激に上昇した。定住化が進展して貝塚が形成された(神奈川県夏島貝塚など)。

III期(前期、中期)

約7,000~5,900年前の高温ピーク時には、現在よりも気温が2度ほど高く、また海水面は2.5mほども高くなり、東京湾沿岸部では現在の栃木県域にまで海が入り込んでいた(奥東京湾)。温暖で安定した気候のもと、環状集落のような大規模な集落を形成して、居住域、墓域、廃棄域といった空間の使い分けが明確化した。環状集落は外径150m程度の大きなものから70m程度の小規模なものがあり、大規模な拠点集落を中心に複数の小規模な集落が位置し、集落間に機能的な差異があった。また、馬蹄形もしくは環状(円形)の大規模な貝塚がこの時期の特徴で、集落に近接するムラ貝塚(集落貝塚)と集落から離れた海岸近くのハマ貝塚があり、ハマ貝塚は近隣の複数集落が関わり貝の加工品(干し貝)をつくる場であった。加工品は内陸部の集落との交易に用いられたと考えられる。縄文時代前期・中期になると集団間、集落間のネットワークを通じて様々な物資が行き交っていた。縄文時代の推定される人口は早期で2万人程度、前期で10万人を超え、中期では24万人程度と急激に増加する。また、東海地方を含む東日本の人口が日本全体(北海道を除く)の96%と東多西少の状況。縄文時代中期には、整然と全体構造が企画された大型の墓域が登場する。長野県棚畑遺跡は居住群が8の字状に分布し、南側の環状住居群の内側の土坑墓群の中央の土壙から国宝「縄文のビーナス」が出土、近接する土壙2基からヒスイ製の垂れ飾りが出土、これら3基の土壙は子どものが埋葬されたと考えられ、世襲的地位の継承が存在したとすれば社会的階層化を示す事例となりうる。また、ヒスイ製大珠が規模の大きな環状集落の集落・墓域の中心部の墓から出土する事例などから、「縄文威信財」が社会的地位の再生産をも促す機能を有していたと考えられ、中期の段階には、地域によってはすでに「特別な人物」が存在したようだとする。

著者は、縄文の基本的死生観を、生命・霊が大きく円環状に回帰・循環するという意味で「円環的死生観」と呼び、土器棺墓や土器埋葬遺構の土器が女性の身体(母胎)をなぞらえている点で円環的死生観を具現化したものとして、円環的死生観は後期旧石器時代まで遡るとする。

埼玉県デーノタメ遺跡

青森県三内丸山遺跡

IV期(後期、晩期)

約4,300年前に気候の極端な冷涼化(4.3kaイベント)で、海水面が低下(海退)。関東地方では、中期末から後期初頭に大きく遺跡数が減少、人口も減少、小規模な集落に分散居住する。この時期に柄鏡形住居と敷石住居が出現する。西日本では、集落・居住跡数が増加。東日本から西日本にある程度の規模の人の移動がうかがわれる。敷石住居の床に敷き詰められた石材は、身近から調達されたものではなく、遠距離の産地から運搬された。敷石住居や大型配石遺構、環状列石の構築が、多くの人々を参集させる機会となり、地縁的な繋がりを結ぶ契機となったと予想される。各地で、水場(水さらし場)遺構の検出例が増える。東日本では水場遺構からはトチやクルミが主に出土するのに対して、西日本ではドングリ類を貯蔵した低地型貯蔵穴が発達し、東西でメジャーフードとなった堅果類に違いがあった。後晩期の関東の集落に環状盛り土遺構が築かれた。盛り土からは、土製耳飾りや骨片、焼骨が出土するため、埋葬の場と考えられ、形成のされ方は貝塚にも類似する。後期以降、交易用の交換材の採取・製作が拠点化、活発化していく。交換材としては、塩、大型の石棒、黒曜石、貝輪の素材(オオツタノハ)などがあり、富山県境A遺跡の磨製石斧やヒスイ製大珠、長野県エリ穴遺跡や群馬県茅野遺跡の耳飾り、愛知県保美貝塚の石鏃など特産物・ブランド化した交換材や、宮城県里浜貝塚で製作された貝輪は大きさが直径8cm程度に統一され交換材としての一定の規格の存在がうかがわれる。集落間における分業的な傾向も強くなり、縄文時代の経済活動は、集落と集落の間に張り巡らされたネットワークによって維持されていた。このネットワークが集団構造という縄文社会の存立基盤であった。

後期以降の土器は、装飾性の高い精製土器と煮沸用の機能に特化した粗製土器に分かれる。精製土器は、深鉢形や浅鉢形だけでなく、壺形土器や注口土器、香炉形土器、皿形土器、台付き鉢形土器等の他様々で、多くは黒色で、中には赤色顔料で塗装されたものもある。

後晩期には東日本を中心に配石墓が増え、中には石棺墓もある。上部配石を持つ墓は、視覚的に「死者の記憶」を想い起こすことが可能で、従来の円環的死生観とは異なる死生観によるものと推察する。後期前葉に多数合葬・複葬例(または人骨集積)と呼ぶ墓制が東京湾沿岸で確認されている。この時期は、小規模な集落が結合して新規に大型の集落が形成された時期で、新集落を開設するにあたり、旧集落の墓から再埋葬することで集団構造を再構成させるための行為と考える。また、多数合葬・複葬例には上屋があったことが柱穴から推定され、上屋は集団統合のモニュメントとされたとして、著者はこの墓制を「記念墓」と呼ぶ。茨城県中妻貝塚の事例では土壙内の人骨は再埋葬前の血縁関係に配慮せずバラバラに置かれた可能性があり、意図的に「個人的記憶」や「社会的記憶」を消失させ集団化した祖霊とするための埋葬・祭祀行為で、多数の死者を祀ったモニュメントにおける集団的祭祀行為・葬送儀礼は、集団統合の象徴として、祖霊祭祀へと連動し、系譜的な結びつきを重視する祖霊崇拝という新たな思想が成立したとする。北陸地方の環状木柱列、東日本の環状列石や大規模な配石遺構も「記念墓」の類例として、自身の歴史的立ち位置を、時間軸に則して直線的に理解する死生観を、著者は系譜的死生観と呼んでいる。

北海道のキウス周堤墓群や周堤墓以降のカリンバ遺跡、東北地方北部の青森県三内丸山遺跡や一ノ渡遺跡など、北海道や東北地方北部の後期の一部の地域には、階層制が存在していたと捉えるが、これら地域でも晩期には「特定の人々」が突出する状況は確認できないとして、人口が少なすぎたことをその原因とする。

縄文時代晩期では、亀ヶ岡式土器が有名だが、亀ヶ岡式土器は岩手県大洞貝塚出土土器を指標とする大洞式土器という呼び名が学術的には正しい。大洞式土器は東北地方だけでなく北海道南部から近畿地方まで分布する。この時期の大洞式土器を主体とする地域の文化を「亀ヶ岡文化」と呼ぶ。九州北部で灌漑稲作水田が開始された頃(約3,000年前)、東北地方は「亀ヶ岡文化」の最盛期だった。その後に近畿以西の西日本に大洞式土器が広まる。この時期に西日本で導入され始めた水田稲作の情報を求めて亀ヶ岡文化圏の人々が西日本各地を目指したとする説を紹介する。

エピローグでは、中国地方の縄文文化を取り上げて、人口密度が低く、小規模な集落を維持しながら、定住しないことで、「複雑な社会システム」を発達させる必要もない社会と、物理的・精神的な不安がいっぱいあるが故に呪術が発達した「複雑なシステム」を有する東日本の縄文社会のどちらが「人間的に豊かな社会」だったのかと問題提起する。また、戦後主流となった発展段階説の枠組み(唯物史観)だけでは、多様な縄文文化をすべて捉えることはできないとする。加えて、世界各地の先史時代遺跡を比較した場合、小規模集落のほうが一般的で、東日本の縄文文化の大規模集落の方が特殊であったことを指摘する。この後に「「縄文」の終焉と「弥生」の開始」という節があるが消化できていないので割愛する。

「おわりに」では、「縄文文化とは、日本列島域の各地で展開した多様な文化の総称」と繰り返し、近年の縄文人を自然と共存した人々と評価したり、縄文時代を「ユートピア」として語る風潮に苦言を呈する。また、遺伝子や死生観など縄文人から現代日本人に受け継がれている部分もあるとして、縄文人は今も私たちの中に生きている、と言うことができるかもしれないと結ぶ。

山田 康弘 (Yasuhiro Yamada) - マイポータル - researchmap

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