週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

戦艦「ポチョムキン」の切手(ソビエト連邦、1972年)

子供のときに趣味で集めた切手を紹介する。

戦艦「ポチョムキン」の切手(ソビエト連邦、1972年)

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戦艦「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」は、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命(二月革命十月革命)に先行する1905年のロシア第一革命において、いわゆる「ポチョムキンの叛乱」で知られるロシア帝国海軍黒海艦隊の戦艦で、艦名は18世紀のロシア帝国の軍人、ウクライナの圧政者、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵(グリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ポチョムキン)に因む。1902年にクリミア半島南西部のセヴァストーポリへ回航した後1905年5月に竣工。6月14日(ユリウス暦)、沖合停泊地での試験中に水兵による武装蜂起が発生。鎮圧にむかった艦隊の水兵らが反乱に同調する動きもあったが、オデッサおよび対岸のルーマニアのコンスタンツァで補給を受けることができず、6月24日にルーマニアのコンスタンツァで艦を引き渡し水兵らは政治亡命者として上陸、その後、艦はロシアに返還された。ロシア第一革命は、1月9日(ユリウス暦)の「血の日曜日事件」を発端として、全国ゼネストポチョムキンの叛乱で最高潮に達したが、憲法制定や武力鎮圧で次第に沈静化し、ストルイピン首相の1907年6月のクーデターで終息した。また、日露戦争はロシア第一革命の前年の1904年2月に開戦、日本海海戦が翌年5月。その翌月にポチョムキンの叛乱が起きた。ソビエト連邦の時代、ポチョムキンの叛乱は革命の神話にされ、1925年に「第1次ロシア革命20周年記念」としてサイレント映画戦艦ポチョムキン」が制作・公開された。ちなみに、戦艦「ポチョムキン」はロシアに返還された後、不吉な反乱艦名は、正教会の聖人に因んで「パンテレイモン」と改名、改名後の1905年11月のセヴァストーポリの蜂起の際に再び蜂起側に就いたがこの反乱も鎮圧され失敗に終わる。1917年3月31日(ユリウス暦)に艦名は水兵の蜂起を記念した「ポチョムキン=タヴリーチェスキー」に改めたが、公爵に因む艦名のため4月13日に「ボレーツ・ザ・スヴォボードゥ(自由の戦士)」と改められた。その後、紆余曲折があり、1925年に赤色海軍から除籍、解体された。

Князь Потёмкин-Таврический (броненосец) — Википедия

File:1972. Броненосец Потемкин.jpg - Wikimedia Commons

ウクライナとロシアの市民に平和と安全を

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