週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

旧石神井川の自然露頭 北区王子本町

音無さくら緑地の旧石神井川の自然露頭は、川の蛇行の侵食作用によって形成された攻撃斜面と呼ばれる崖地で、自然に形成された河岸の断面を観察できる。地下水がポタポタしみだしている縞状の部分より下方の赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に貝殻の化石が見つかる。1879年(明治12年)にナウマンの後任のお雇い教師として東京大学理学部地質学教室教授に招聘されたドイツの地質学者のブラウンスが、1880年石神井川河岸で地質調査して、露頭から多くの化石を採取、化石包含層を王子貝層と名付けた。

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音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭

音無さくら緑地(王子本町1丁目6番地先)は、まだ石神井川がくねくねと蛇行して流れていた頃の旧流路につくられたものです。

皆さんの正面にある崖地は、川の蛇行による侵食作用が最も大きくなる部分で、地形学ではこのような地形を攻撃斜面と呼んでいます。

視線を下げ、地下水がポタポタしみだしている縞状の部分より下方を注意深く観察してみますと、赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に貝殻の化石を見つけることができるかもしれません。

この化石がはさまっている地層は地質学的には「東京層」と呼ばれる部分で、今から12〜13万年前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底になった頃に形成されたものです。

明治13年(1880年)、当時東京大学に地質学・古生物学の教授としてドイツから来日していたブラウンスが王子を訪れ石神井川沿いを調査しました。かつてこの場所のすぐ北には穀物脱穀する水車場があり、その露頭から多くの化石を採集しました。右の図はその時の調査をまとめた論文に掲載されたスケッチの一部です。

これまで、地層を観察するには、自然に形成された河岸の断面を見ることが基本とされてきました。しかし、近年都市化が進むにつれて岸辺を保つことがしだいに難しくなりました。このような自然の河岸が露頭している場所は東京区部では非常に珍しく、こうした地層を観察できる場所は学術的にも教育的にも大変貴重な場所といえます。

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アイアスカイノデ

飛鳥山の地名にちなんでつけられたシダの一種です。明治時代の初め、このシダが最初に採取された地であることから名づけられました。

北区では、このようなシダが自生できる自然環境が残り少なくなっています。

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記念碑

石神井川は、昔から両岸に樹木がうっそうと茂り、深山幽谷の趣きがあったが、昭和四十年頃からの改修工事によって、美しい自然がつぎつぎと消えていくのを惜しみ、□岸の自然会、商店街の各代表、神社仏閣の当主が昭和四十九年に「石神井川の自然を守る会」を結成、東京都、北区など関係当局に衷情を訴え、ここに旧川を利用して昔の面影の一部をとどめることに成功した。

よって記念碑をつくり、これを末代に伝えるものである。

昭和五十五年十月 石神井川の自然を守る會 東京都北区長 小林正千代 謹書

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ここは下記のブログ記事でナウマンについて調べる中で知った。

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