週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

海軍東京通信所蟹ヶ谷分遣隊と耐強受信所(地下壕) 川崎市高津区久末

3月の蟹ヶ谷古墳群の現地見学会の後で、Googleマップで「海軍東京通信所蟹ヶ谷分遣隊耐強受信壕跡」と登録されている地点を訪れた。昨年「蟹ヶ谷の横穴墓群跡」を探索したときに、「運輸省 東京空港事務所 蟹ヶ谷無線中継所跡地」と登録された地点を訪れたら川崎市営四方嶺住宅跡地に「学研の高齢者向け住宅」が建設中だった。旧海軍の蟹ヶ谷分遣隊の跡地で、約400m西に「海軍東京通信所蟹ヶ谷分遣隊耐強受信壕跡」と登録された地点があったが、時間がなかったので訪れなかった。そこで、一年越しに訪れた。そこは周りを住宅地に囲まれた谷戸に残る農地だった。

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海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と耐強受信所(地下壕)

昭和五(一九三〇)年六月、旧日本海軍高津区蟹ヶ谷に無線基地を設置し、昭和十二(一九三七)年には「海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊」と改称しました。海軍東京通信隊は本隊を海軍省に置き、送信を任務とする船橋分遣隊と戸塚分遣隊、受信を任務とする蟹ヶ谷分遣隊に分かれていました。戦争が激しくなってきた昭和十八(一九四三)年には、当時周囲を山林と竹やぶで覆われていたこの谷戸地に二つの耐強受信所(地下壕)を造りました。旧日本海軍の攻防と併せて世界の情報を傍受し、その内容は東京通信隊本部や日吉の慶應義塾大学構内にあった連合艦隊司令部にも伝えていたといわれています。

現在残っている耐強受信所(地下壕)は、厚さ四十センチメートルのコンクリートでアーチ状に作ら れ、当時三か所の出入口がありました。その一部が保存されていますが、立ち入ることはできません。 実物の約三十五分の一の大きさの模型を川崎市平和館に展示しています。

※危険ですので立ち入らないで下さい。

平成十七(二〇〇五)年三月 川崎市平和館

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ミツマタ
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川崎市営四方嶺住宅跡地
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川崎市:市営四方嶺住宅跡地利用について

ニヶ領用水の神地(ごうち)橋(中原区小坂御殿町)
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