稲荷塚古墳(浅羽野2号墳)の次に浅羽野4号墳を訪れた。墳頂に高さ231cmの浅羽橋場の板石塔婆(坂戸市指定考古資料)が立つ。文献[1]では「浅羽野4号墳(大塚)、円墳、径24m」
坂戸市指定考古資料 浅羽橋場の板石塔婆
この橋場墓地内に建つ、緑泥片岩の板碑は、高さ231センチ、幅54センチを測ります。
板碑に刻まれた年代は、鎌倉時代末期の応長二年(1312年)三月十五日です。
銘によれば、安部友吉・長田守行の両名が結衆三十人を募って、造立したことがわかります。
大旦那と記された阿部・長田両氏の事跡は、不明ですが、奈良市興善寺の阿弥陀如来胎内から出た鎌倉時代初期専修念仏者の交名文書には、阿部友未や友重あるいは長田氏の名も見えるので、おそらくそれらの人々の子孫と考えられるのではないでしょうか。
いずれにしても、闊達な楷書で刻まれた「光明遍照」の偈文(げもん)とあわせて考えるとき、この地方にも、法然上人につながる念仏者の信仰集団の存在を物語る貴重な資料といえるでしょう。
文献
[1] 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」
[2] 塩野博 2004「埼玉の古墳 北足立・入間」さきたま出版会