週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

2019年の野毛古墳まつりのこと (その1)

2019年10月20日に開催された「野毛古墳まつり」についてはすでにブログ記事を書いたが、そのときは書かなかった学芸員さんからお聞きした話を少しまとめておく。

10時30分から11時までの区学芸員による野毛大塚古墳と古墳群の解説を聞いた話。葺石は一番下のみ復元してあるが、元々は墳丘全体が葺石で覆われていた。葺石の総数は100万個ちょい。周溝は隣の野球場のピッチャーマウントの辺りからテニスコート、道路の向こうの公園用地まで、外径は104m。発掘前は周溝も前方部も造り出しも埋まっていて円墳状で、草茫々、モトクロスのバイクが乗り上げ大変傷んでいた。墳形は帆立貝形で、前方後円墳の前方部を1/3ぐらいの長さで高さも低くした形。円筒埴輪が三段、巡っていた(復元していた埴輪は壊されたので取替え中で今はない)。古墳時代の始まる時期は学芸員さんが中学生の頃は5世紀ごろと教わったが、現在は古墳時代の始まりとされる(学会で8割くらいの人が卑弥呼の墓と考えている)箸墓古墳の年代が西暦240年頃(3世紀中頃)と考えられている。野毛大塚古墳は西暦400年頃(古墳時代中期)の古墳。この頃には地方の首長は大和王権の仲間から主従に関係が変わり古墳の墳形に制限がかかり、前方後円墳ではなく帆立貝形になったと考えられる。この時代は天皇陵とされる前方後円墳にも造り出しが付く。元々、まつりは前方部で行われていたが古墳が大きくなりすぎて前方部からでは墳形がよく分からなくなり、造り出しでまつりをやるようになった。造り出しは、柵形埴輪で囲われ、その中に家形や水鳥形埴輪が置かれた。水鳥が被葬者の魂をあの世に運び、また、水鳥に運ばれて家に帰って来ると考えられた。野毛大塚古墳の造り出しも同様で、大和王権との結びつきがわかる。ここで野毛大塚古墳の墳頂に移動して解説を聞く。墳頂にはセラミックの陶板で棺と副葬品を示している。前方部の中軸線上にある棺が最初に葬られたこの古墳の主で、長さは8m、直径90cm、直径1mを超える大木の高野槙をくり抜いて棺としている。高野槙は防虫効果があり、おそらく紀伊半島から船で運んで来た。石室はなく棺は粘土の中に置かれた。古墳の中心の位置に鉄製の鎧と兜が置かれた。箸墓古墳の頃は鏡・玉・剣が三種の神器だったが、この頃は甲冑が王者のシンボルだった。この甲冑は全国で35例で、形になっているのは10例しかない。当時、日本には製鉄技術がなく鉄の素材を輸入して加工していた。鉄の輸入は大和王権が掌握していた。佐紀盾列古墳群の御供物を埋納するだけの古墳から鉄の延棒が何千枚も出土した。野毛大塚古墳は4基の棺から64本の刀が出土していることから、武蔵国(現在の横浜市の一部と川崎市と東京都と埼玉県)を治めた大首長の墓と考えられる。2番目に葬られたのが4mの組み合わせ式の木棺。鉄製の鏃280本ほどと32本の刀を副葬。甲冑がなく王位を継いでいない可能性が指摘され、最初の被葬者から10年後くらいに埋葬された未成人の王子と考えられる。3番目に葬られたのが石棺で脇に石板が1枚あった。墓誌かと期待したが字は刻まれていなかった。最初の被葬者から25年後くらいに埋葬された。この棺は1897年(明治30年)に地元の方々が掘ったため、副葬品の埋葬状況が不明。血塗れの人骨が出土して祟りで4人亡くなったと地元では伝えられている。水銀朱で満たしていたと考えられる。人骨は戦前までは石棺に入ったままだったらしいが、戦後の調査時にはなかったので、どこかで供養されたかもしれない。鎧兜と刀などが出土。東京国立博物館に収蔵。被葬者は首長を継いだと考えられる。1902年(明治35年)に地元の方々が掘って棺が見つかったが祟りを恐れ埋め戻され、その後、不明になっていた天慶塚古墳が2018年の発掘調査で再発見され、長持形の石棺であることが判明した。この形は関東では5例しかない。天慶塚古墳は50mくらいの規模なのに他の4例は100m以上の首長墓。天慶塚古墳の出土品は野毛大塚古墳の2番目に葬られた木棺の出土品と時代が一致する。この時代、伝仁徳陵古墳の棺も長物形石棺で、木棺から石棺に移行している。王位は野毛大塚の最初の被葬者から天慶塚古墳の被葬者が継ぎ、野毛大塚古墳の3番目の被葬者に戻り、その次に御岳山古墳の被葬者が継ぎ、その後何代かを経て、野毛大塚古墳の南側の都営住宅跡の発掘調査で判明した帆立貝形の野毛2号墳(野毛大塚古墳から120年ほど後)まで続いたと考えられる。この古墳を最後に野毛には古墳が造られなくなる。武蔵国造の乱(534年)で、野毛の王が、埼玉の王と対立して、毛野の王と手を結び、大和王権に助けを求めた埼玉の王との争いに敗れたと考えることもできる。年代も矛盾しない。534年はジャカルタの先、東南アジアで巨大噴火があり、火山の冬に見舞われたとローマでも中国でも記録されている。天の岩戸との関連も考えられる。534年問題として学会でもシンポジウムを行う。野毛大塚古墳の4番目に埋葬された棺は刀1本と槍1本しか出土していない。御岳山古墳と同じ時代。この後、質問の時間で、私は4つの主体部の番号付けについて質問。埋葬順は第1、第3、第2、第4の順。第2が明治時代に発掘、第3が見つかる前に、第1、第2、第3と名付けたが、第1と第2の間の埋葬順の主体部が新たに見つかり、第3を第4に変更して、新たに見つかった主体部を第3と名付けたとのこと。他の質問では、都営住宅跡から見つかった方墳(野毛13号墳)と野毛大塚古墳の関係について、同時代と考えられ野毛大塚古墳の陪塚と考えているとのこと。また、野毛大塚古墳の時代は、朝鮮半島が危ない情勢(北の高句麗が強くなって、南の百済が滅亡)で、半島から逃れてきた人々の受け皿(入植地)として大和王権が東国を活用したのではないか。その見返りが大和王権の後ろ盾や武器の供与だったと考えられるとのこと。

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野毛2号墳-13号墳【東京都世田谷区】 - ぺんの古墳探訪記

文献

[1] 桜井貴子 2010 「南史に痕跡の残る謎の大噴火とその日本史への影響」『歴史地震』第25号

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