11月19日に開催された史跡探訪「行田市内の史跡を巡る」の続き。八幡山古墳石室は、説明板に「昭和52年から54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿になっています。」と説明があり、整備前の姿が石室実測図に記載されていたが、そこまで理解していなかった。今回、埼玉県立さきたま史跡の博物館の学芸員に解説していただき、どの石が古墳時代の石で、どの石が復元整備された石か理解できた。
石室は奥室、中室、前室、羨道の複室構造。羨道部分はほとんど残っておらず、他の事例を参考に復元。胴張形の中室の側壁の大きな2枚の石は当時の石。復元前は、床石は剥がされ、その下に十字に組んだ土台の石の構造が確認できた。現在は床石を復元したので確認できない。
石の材質は、秩父・長瀞・小川町で採れる緑泥片岩、群馬県榛名山の噴火由来の角閃石安山岩、比企地方特有の凝灰岩を使用。天井石と壁の大きな石が緑泥片岩、壁の小さな石は角閃石安山岩、床石に凝灰岩。
奥室(玄室)の奥壁の鏡石は当時の石。
奥室の側壁と床石。側壁の1段目より上の石は復元。
八幡山古墳整備記念之碑
2018年秋の埼玉県立さきたま史跡の博物館の企画展「埼玉の古墳3―北足立・北埼玉・南埼玉・北葛飾―」で紹介された八幡山古墳の出土資料
八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉古墳群の中心となる古墳のひとつで、7世紀前半につくられた直径約80mの大型の円墳と推定されています。
昭和9年に約2km東にあった小針沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年には調査が行われて前・中・後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。その後、昭和52〜54年に調査と復元整備が行われて現在の姿になっています。
発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅鋺など豪華な建物が発見されており、この古墳に葬られていた人物がかなりの権力者であったと考えられることから、この古墳を「聖徳太子伝暦」に登場する武蔵国造物部連兄麿の墓と推定する説もあります。
なお、この石室は奈良の石舞台にひってきする巨大な石室であることから、「関東の石舞台」とも呼ばれています。
この八幡山古墳石室実測図に描かれた石のみが復元前に残っていた石
北大竹遺跡・若小玉古墳群の説明板
北大竹遺跡 (若小玉古墳群)
北大竹遺跡は、行田市富士見工業団地北東側とその周辺に広がる古墳時代〜平安時代の集落遺跡・古墳群です。
また本遺跡の古墳と、近接する埼玉県指定史跡地頭塚古墳及び八幡山古墳、北西側の中村遺跡の古墳、南東側の南大竹遺跡の古墳など、長野落北岸沿いに連なる古墳によって、 若小玉古墳群が形成されています。
本遺跡と若小玉古墳群については、これまでに30回近い発掘調査が行われ、約230軒の竪穴住居跡、約60基の古墳跡などが検出されています。そして本遺跡が古墳時代〜平安時代の行田市を代表する大規模な拠点的集落遺跡であること、若小玉古墳群が市内では埼玉古墳群に次ぐ規模の重要な古墳群であることなどが明らかになっています。
古墳時代の集落の展開
北大竹遺跡からは、旧石器時代の石器や縄文土器なども極少量出土していますが、本格的に人々が生活を営むようになるのは、古墳時代前期(4世紀後半頃)からと思われます。この時期に遺跡南東部に、方形に地面を掘りくぼめた半地下式の竪穴住居が建てられ、集落が営まれ始めます。
行田市内ではこの時期に水田開発が進み、 各地で小規模な集落が営まれるようになります。この集落もそうした集落のひとつであったのかも知れません。しかしながらこの集落は短期間に発展し、まもなく遺跡南半部 (太陽香料株式会社埼玉工場付近〜中央資材 埼玉物流センター付近〜ニッコー株式会社埼玉工場付近)に大規模な集落が展開するようになります。
この当時は、本遺跡と若小玉古墳群が広がる長野落北側は、少し高い丘になっていて、その丘の南側には谷が複雑に入り込んで、所々に湿地などが形成されていたようです。 集落はその谷に面した尾根状の丘の上に広く展開して行ったのです。
ところが古墳時代中期(5世紀)になると、それまで広範囲に展開していた集落が、次第に集約されて遺跡北東側の比較的狭い範囲に、密集して展開するようになって行きます。
この時期には気候が寒冷化し、水利環境が悪化したと考えられており、人々は集住し、協力してこの気候の変化を乗り越えようとしたものと思われます。
若小玉古墳群の築造
埼玉古墳群の築造が始まる古墳時代後期初頭(5世紀末頃)に、本遺跡南東部にも埴輪をたてた小型の円墳が築かれ、若小玉古墳群の築造が始まります。
若小玉古墳群は、墳径20m以下の小型の円墳を中心とする多数の古墳が、密集して築かれている古墳 群ですが、 後期前半(6世紀前半)になると墳長約70mと推定される大型前方後円墳の三方塚(三宝塚)古墳が、遺跡北東側に築かれます。
この場所には、前期より古墳築造直前まで集落が継続して営まれていましたが、古墳は集落をすぐ東側に追いやって築かれています。間もなくその東側にも小型の円墳が築かれ始め、集落は更に北側へと追いやられます。
狭い台地上に古墳を築くために集落が追いやられた結果、この時期以降集落はより狭い範囲に密集して営まれるようになります。
同じ頃、三方塚古墳に続く古墳群の盟主的な大型前方後円墳である愛宕山古墳が、本遺跡の範囲を超えた南西側に築造されるようです。さらに後期中葉(6世紀後半)になると古墳群は長野落北岸の台地上の東西両方向に大きく広がり、中村遺跡、南大竹遺跡にも古墳が築かれて行きます。
続く後期後半(7世紀前半)になると、” 関東の石舞台” と呼ばれる巨大な石室を持つ八幡山古墳が築かれますが、後期末(7世紀中葉頃)に東日本最古の線刻壁画が描かれた地蔵塚古墳が築かれたのを最後に、若小玉古墳群の築造は終焉を迎えます。
奈良〜平安時代の集落
若小玉古墳群築造ため、古墳時代後期前半(6世紀前半)に遺跡北東部の比較的狭い範囲においやられた集落は、古墳群の築造終了後も同じ範囲にくり返し竪穴住居等が密集して建てられ、奈良時代(8世 紀)をへて平安時代前期(9〜10世紀)まで連綿と大規模な集落が営まれて行きます。
この集落からは、近畿地方の影響を受けた奈良時代初頭の土器なども出土しており、律令体制下の地域の拠点的な大規模集落であったと思われます。
永く続いたこの集落も、平安時代前期後半(10世紀)になると急速に衰退し、消滅してしまいます。
万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡(さきもりふじわらべのともまろいせき)
さきたま古墳群と史跡散策コース
東行田駅前の案内板
11月19日(土)に #史跡探訪「行田市内の史跡を巡る」を開催しました。今回のコースは、東行田駅→地蔵塚古墳→八幡山古墳→若王子古墳跡→白山古墳→白山愛宕山古墳→埼玉古墳群でした。行田市内の各地に様々な古墳があることを実感していただけたと思います。学芸員による解説も大変好評でした。 pic.twitter.com/y1tSjTGNN9
— 埼玉県立さきたま史跡の博物館 (@sakitama_museum) 2022年11月25日