週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

仲町愛宕神社古墳 本庄市中央

群馬県立歴史博物館に行く前に本庄市の古墳に寄り道。

本庄市の遺跡番号142、仲町愛宕神社古墳。文献[1]の「北原愛宕山古墳、円墳、径24m、埴輪」
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第60回伊勢神宮式年遷宮記念 愛宕神社 御由緒  本庄市中央1-5-2

御縁起(歴史)

本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。

当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年(1590)に本庄城主の小笠原掃部大夫信嶺によって開かれ、慶安2年(1649)に三代将軍家光から一五石の御朱印を賜ったことで知られており、歴代将軍から拝受した朱印状を納めた漆塗りの箱は市指定文化財になっている。当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せる。

神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。社格無格社であったが、氏子の厚い信仰と「由緒ある社である」との誇りにより、明治末期にしばしば要請のあった村社等への合祀の話も退け、独立した社を維持してきた。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、 現在も同寺で大切に祀られている。

御祭神

愛宕大神

・天手長男大神

・子安稲荷大神

御祭日

祈年祭(三月十五日)

・例祭(四月二十四日)
祇園祭(七月十五日)

新嘗祭(十一月二十四日)

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愛宕神社 所在地 本庄市中央1-5

愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。

天正19年(1591) 本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。

神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分れている。南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約16メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西約20メートル、一本で社叢(しゃそう)を形成している。このケヤキは、昭和43年本庄市指定の文化財となっている。

昭和61年3月 埼玉県 本庄市

文献

  1. 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書

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