週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

大塚古墳 大田原市中野内

舟戸古墳群から東に車で4分ほどにある大塚古墳。大塚古墳の方が舟戸古墳群よりちょっと北にあるので、関東最北の古墳(単独墳)かも。Google Mapだと大塚古墳と舟戸古墳群の中間の少し北に槻沢古墳が登録されている。こっちが最北かも。大塚古墳は、大田原市指定記念物(史跡)で、一辺約28m、高さ約4.5mで二段築成とみられる。下段(基底)は、周辺の畑耕作により削平され、一見方形にみまちがう。周溝は、周辺の畑地耕作により認められない。内部主体(埋葬施設)は、未調査のため不明。

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大田原市指定記念物 (史跡)

昭和48年12月14日指定 所在地 大田原市中野内 所有者 個人

大塚古墳 ■1基 ■古墳時代

基底が破壊されているため正確な数字は得られませんが、一辺約28m、高さ約4.5mで、二段築成と見られます。南側は低い傾斜地になっています。

大関増業編述の「創垂可継(そうすいかけい)」(県指定文化財)所収の「封域郷村誌」には、豊城入彦命の孫、彦狭島王の衣と髪を桜田村の民が祀って、塚を築き王塚と称したと記されています。ま た、九尾の狐伝説に付会した形で、尾塚とも言われています。

なお、周辺の畑地からは、打製石器縄文土器片が表面採取されています。

大田原市教育委員会

豊城入彦は、群馬県高崎市の将軍塚古墳の前方部に鎮座する島名神社に祀られている。

大塚古墳(おおつかこふん) 市指定史跡 | 大田原市

テキスト 『黒羽町誌』P.136 / (二) 大塚古墳

文献

[1] 黒羽町誌編さん委員会 1982『黒羽町誌』黒羽町

こっちが最北かも

古墳なう 那須町「下城古墳 (北向き地蔵) 」

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