週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

舟戸古墳群 那須町稲沢

那珂川水系最北端で、関東最北端の古墳群の舟戸古墳群。白河の関まで19km。帆立貝形古墳1基と円墳2基。最近になって、県道北側の林の中に、これらよりもやや小型の円墳が2基、新たに確認されているとのこと。

舟戸1号墳
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舟戸3号墳(左)と1号墳(右)
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舟戸3号墳(左)と2号墳(右)
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舟戸3号墳

舟戸2号墳
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舟戸2号墳(左)と1号墳(右)

ハッケトンヤ縄文式遺跡および舟戸の古墳群

ハッケトンヤ縄文式遺跡および舟戸の古墳群

那須町指定文化財 昭和35年10月15日指定

ハッケトンヤ遺跡は、余笹川と那珂川の合流点内側に位置し、丘陵の突端部で現在の黒川発電所の崖の上あたりにあります。ハッケトンヤとは地名で、急な崖の上を意味する古語であるといわれています。

この遺跡は、縄文時代中期(約5000年前)以降の代表的な遺跡であり、面積は約30aです。遺物としては、打製石斧・磨製石斧・石鏃・石血・土器片等が多数発見され、加層利EII式と同Ⅲ式のものが多くみられます。ここは平地からの高さが20mあり日当たりもよく、また那珂川と余笹川にはさまれ、狩猟、漁労のための自然条件が大変よい場所です。

舟戸古墳群の主墳である前方後円墳は、帆立式と呼ばれるもので、前方部が通常のものよりも短く、全長は約10m、高さは約3mあります。この古墳は、東に開口して羨道があり、横穴式石室をもち、共に那珂川安山岩を利用して内側を築いています。明治のころ、人骨粉と直刀二振りが出土したと伝えられていますが、確かではありません。

いくつかある円墳は、主墳よりも小振りですが規模からみてこの地方の小豪族のものと思われます。被葬者やそれらの人々の居住地については不明です。那珂川水系に多い古墳群のうち最北端のものであり、関東最北端の古墳群でもあります。

那須町教育委員会

那須町の文化遺産

古墳なう 那須町 「舟戸古墳群」

那珂川
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当地は古代の東山道や中世の関街道の那珂川の渡河地点と推定される。東山道は、源義経が治承4年(1180年)兄頼朝の平家追討の挙兵に呼応して、奥州平泉を後に一路鎌倉へ向かった道で、義経街道とも呼ばれる。福島県境の住吉玉津島神社(追分の明神)から道の駅東山道伊王野を経て当地まで、義経伝説を物語ふうに説明する板(説明板)が14枚設置されている。

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義経伝説 物語ふうに話をすすめながら義経伝説のあとをたずねてみましょう。

14 義経 鎌倉へ

那珂川べりにつきました。ここを越えれば那須野が原です。遠く白い雲が湧き、野はもう出たばかりの紅色の薄穂が秋の陽をてりかえす川面の光に映えて美しい。義経一行は川べりにおり立つと、大きく息を吸いました。長い旅路の、今はもう半ばを過ぎています。佐藤継信・忠信兄弟をはじめ、はじめて関東の地を踏む者もいます。

水豊かな那珂川が急流となって山足を洗う高館からは、日光・高原・百村・那須の山々、そのふ もとへ遠く連なる広々とした那須野が原を一目に見渡せる。秋の西陽が今はまともに映え、まもなく日光二荒の山ふところに落ちるでしょう。

「鎌倉は近い、今夜は川を越えて余瀬に泊まろう」金売り吉治について奥州平泉に逃れたとき、ひとりになってひそかに隠れたあの寺へ、今夜は胸をはって宿することとしよう。義経一行は水しぶきを上げて一気に川を渡りました。

高館からは・・・与一宗隆が、少年の胸をときめかせて、それをジッと見つめていました。「おれは、義経についていく」

■ここは源義経伝説の場所ではありません。

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