週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

2019年の野毛古墳まつりのこと (その2)

昨日の続き。13時30分から区学芸員による野毛古墳群散歩(野毛大塚古墳、等々力渓谷3号横穴墓、御岳山古墳、狐塚古墳)に参加。

等々力渓谷3号横穴墓。横穴墓は墳丘がなく崖線に横穴を掘って墓とする。韓国、九州、大分辺りで発生して、東日本に人が移動して来て伝わる。1号横穴墓、2号横穴墓の標識はこの辺だろうというところに立てた。3号は保存できたので公開している。この右側に3基ぐらい横穴墓があることがわかっている。野毛大塚古墳より210年ぐらい後の時代(7世紀初め)に、静岡県藤枝の辺りの人々がこの辺りに来て定着して築造した。説明板は有田焼。3号横穴墓には3体の人骨が収められていた。大腿骨に切り傷があり、昔は食人とも言われたが間違いで、再葬(2次葬)、洗骨の跡と考えられている。2号横穴墓には石棺があり、静岡県で流行っていた。当時の大和の都の土器が出土(関東では2例くらい)。租庸調の徭役(ようえき)で都に行ったときに持ち帰ったものか。公開している横穴墓に入れる人骨の標本を用意したが、入れると警察に通報されるのでやめた。

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御岳山古墳に徒歩で移動。道中、殿山横穴墓群の話題になったがオフレコなので割愛。御岳山古墳は野毛大塚古墳の50年くらい後(5世紀中頃)の首長の墓。帆立貝形。後円部径40m、全長57m。万願寺の敷地。敷地の中に入るには許可がいる。学習院大が戦前に発掘調査。粘土槨の木棺が報告されているが、正確な位置はわからない。甲冑(2領)が出土。この調査以前に七鈴鏡が出土と伝わる(出土状況は不明)。道路の拡張計画があり、試掘した結果、葺石が確認されたため、その手前まで歩道を広げる予定。私有地のため未整備。ここで脱線して野毛と毛野について。2018年の天慶塚古墳の発掘調査で、野毛大塚古墳の2番目の埋葬施設と同時期で、3番目の埋葬施設の箱形石棺より古い形の長持形石棺が検出された。また、埴輪は群馬県藤岡市の職人が藤岡市の粘土を運んで野毛で作ったと判明、石製模造品を製作したのも藤岡市の職人と判明、古墳の外に飾るものから中に入れるものまで藤岡産の可能性が高い。当時の群馬は200m超えの前方後円墳を築造。野毛大塚古墳を発掘していた頃は、毛野に対抗するために大和が野毛に力を与えたと考えたが40年経って、野毛は親毛野政権(格下)と考えるように元に戻った。考古学は新しい材料が出てくると今までの考えが間違いとなることがある。

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狐塚古墳。以前はお稲荷さんが祀られていた。世田谷区が管理するのにあたり、宗教施設は外した。何箇所か発掘して、埋葬施設の場所の推定までできているが、棺とか遺物までは確認できていない。埴輪や粘土の残骸が検出されている。粘土槨の木棺と推定されている。埴輪の土の分析では群馬県太田天神山古墳の付近の土が使われている。野毛には埼玉の埴輪は入ってこない。ここには戦時中にサーチライトの陣地があり削平された。

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ここから質問コーナー。天慶塚古墳の石棺が検出された宅地は道路に面しておらず、世田谷区が公園用地とするためには二方向に出入口が必要で購入できなかった。余談として等々力渓谷は渓谷ではなく人工河川で古墳時代に開削した可能性を考えるとのこと。

文献

[1] 松崎元樹 1997 「世田谷区御嶽山古墳出土遺物の調査」『学習院大学公文書館紀要』

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