武者塚古墳の南西の台地の縁に分布する坂田塙台古墳群。いばらきデジタルマップでは、前方後円墳1基、円墳12基、不明2基。武者塚古墳石室公開を見学後に顔馴染みの面々とまわった。
坂田塙台8号墳。円墳。2013年に区画整理事業に伴う発掘調査で、8号墳の墳丘北東側をかすめるように調査区が設けられ、2重周溝が確認された(文献[3])。墳丘径30m、残存高6.2m、内側周溝の外径39m、外側周溝の外径55m。円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土。また、台地内部の調査区で2基の小円墳の周溝跡(14号墳、15号墳)を検出。
坂田塙台6号墳(右)と坂田塙台5号墳(左)。2014年に坂田塙台3〜6号墳の測量調査と3,5,6号墳の地中レーダー探査が実施された(文献[6])。
坂田塙台6号墳。円墳(?) 文献[6]によれば「現状の墳丘は東西方向に長い楕円形を皇し,東西の最大径が約 16m, 南北の最大径が約3m」「古墳としての認定に課題がある」
坂田塙台5号墳。円墳(?) 文献[6]によれば「最大径が約15mの不整円形を呈する古墳」「古墳の可能性が高い」「GPR探査により裾部に埋葬施設の可能性を示す地点が確認されたことから 常総型古墳である可能 性が考えられる。」
坂田塙台3号墳。円墳(?) 文献[6]によれば「東西の最大径 13.8m, 南北の最大径が11.1mの不整円形を呈する古墳」「古墳の可能性が高い」「GPR探査により裾部に埋葬施設の可能性を示す地点が確認されたことから 常総型古墳である可能 性が考えられる。」
坂田塙台4号墳。円墳(?) 文献[6]によれば「残存する墳丘は楕円形を呈し」「東西の最大径が約12m, 南北の最大径が約8m」「古墳としての認定に課題がある」
坂田塙台2号墳(武具八幡古墳)。円墳。径約15m。江戸時代末期に古墳時代中期の鉄製甲胃がまとまって出土したことで知られる(文献[1])。墳頂の「武具八幡」と文字の刻まれた石碑が名前の由来とのことだが、石碑を確認するのを忘れた。2013年に測量調査と地中レーダー探査を実施(文献[4])。2014年に発掘調査を実施(文献[5])。墳頂部に設けた調査区から重複する1号土坑と2号土坑を検出。1号土坑が安政元年における甲冑発見寺の掘削穴と考えられる。2号土坑の北側で鉄剣等を検出するも埋葬施設の痕跡は一切確認できず。「既出土品と接合する短甲の破片が 1 号土坑から出土したことは,今日伝わる鉄製甲腎類が本古墳から出土したことを確実に裏付ける重要な成果」(文献[5])
坂田塙台1号墳。円墳(?)
坂田塙台9号墳。円墳(?)
坂田塙台10号墳。円墳(?)
坂田塙台11号墳。前方後円墳。全長約28m。採取された埴輪から6世紀前葉ないし中葉の築造。手前の後円部の墳頂から奥が前方部。2008年に測量調査が行われた(文献[2])。
左が後円部、右が前方部。
武具八幡古墳-坂田塙台1号墳-3号墳-5号墳-6号墳-7号墳【茨城県土浦市】 - ぺんの古墳探訪記
坂田塙台8号墳-9号墳-10号墳【茨城県土浦市】 - ぺんの古墳探訪記
文献
[1] 武者塚古墳調査団 1986 『武者塚古墳』新治村教育委員会
[2] 小野塚拓造 2010「茨城県土浦市所在坂田塙台11号墳の測量調査報告」『筑波大学先史学・考古学研究』21号
[3] 勾玉工房Mogi 2013 『下坂田塙台遺跡・坂田塙台古墳群』土浦市教育委員会
[4] 辰巳祐樹 2015「土浦市下坂田武具八幡古墳の測量調査及び 地中レーダ-探査」『筑波大学先史学・考古学研究』26号
[5] 滝沢誠 2016「土浦市武具八幡古墳の発掘調査」『筑波大学先史学・考古学研究』27号
[6] 辰巳祐樹 2016「土浦市坂田塙台古墳群の測量調査及び地中レーダー 探査」『筑波大学先史学・考古学研究』27号