この日(5月24日)も日比谷公園を訪れた。日比谷公園は日本初の西洋風公園として明治36年に開園した。
アーク灯
アーク灯
この元アークライト灯は、開園当時の公園灯で、園内には10基設置され、1200カンデラの明るさがあったといわれます。これ以外はガス灯70基が設置されていました。
三笠山の裾にある水飲みと同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっており、両方とも明治の記念物として1基づつ園内に残っています。
水飲み
水飲み
この水飲みは、日比谷公園開設当時(明治36年/1903年)のものです。鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。
石枡
石枡(いします)
石をくり抜いたこの水槽は江戸時代の上水施設です。江戸城へ向かう途中に水汲み用として設置され、大名邸などに導水していました。
松石
松石
今から3〜5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質の液がしみこんだものを珪化木といいます。北九州の炭田では、炭層中に珪化木が含まれこれを松石または松炭と呼んでいます。
ここにあるものは、昭和初期、福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。
旧日比谷公園事務所
東京都指定有形文化財(建造物) 旧日比谷公園事務所 (東京都公園資料館)
旧日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910)11月に竣工した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。
建物の規模は桁行12.6メートル、梁間7.2メートル。現在、内部は一階部分に倉庫・物入・ 厨房・便所、二階部分にベランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。
昭和51年(1976)に公園資料館として使用するため内部を改造しているが、構造の躯体、軸組、外観の変更は僅かでよく旧態を留め、二階の展示室にある腰板・棹縁天井・ベイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残りがある。
この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建築 物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。
平成2年12月27日建設 東京都教育委員会
我が国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910年)11月に竣工したドイツ・バンガロー風の瀟酒な建物です。昭和51年(1976年)より公園資料館として内部を改造して 使われていました。明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして、平成2年(1990年)3月22日に東京都指定有形文化財に指定されました。
建物の規模は、桁行12.6m、梁間 7.2mです。
心字池
心字池(しんじいけ)
ここは日比谷公園ができる前は濠でした。その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。
ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に
残っている。江戸の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
古代スカンジナビア碑銘譯
古代スカンジナビア碑銘譯(ひめいやく)
スカンジナビアの人々が、1957年2月24日ヨーロッパより北極経由で、日本への空路を開拓しました。この碑は、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑を模したものです。
南極の石
南極の石
この石は、南昭和基地から4kmの地点にある、東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取しました。重さは150Kgの片麻岩(へんまがん)です。
南極観測船「ふじ」が持ち帰り、昭和41年4月14日、この公園に設置されました。
石貨
石貨(せつか)
この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、 石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。
一般に、1.直径の大小 2.表面が滑らかか粗いか 3.形のよしあし 4.運搬の難易によって価値が決められました。
この石貨は長径1.35m短径1.00mのほぼ円形で、大正13年(1924)頃、1000円位で通用したと言われています。
大正14年1月 ヤップ島支庁長 寄贈
第一花壇
はにわ
はにわ
昭和40年(1965年)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原古墳群をはじめ、多数の 古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体が東京都に贈られ ました。
にれのき広場
日比谷公園にある宮崎県から送られた埴輪達。
— 古代人? (@Kikiki93886931) 2022年7月21日
モデルは群馬県境町と伊勢崎市の出土品。
東京国立博物館に所蔵品。
少しアレンジしている。
子持ち家形埴輪だけが宮崎県西都原古墳群出土品。
これも東京国立博物館所蔵。
宮崎−群馬−東京と謎の埴輪つながりですね。 pic.twitter.com/QUU1wY5Zhe
説明文です。
— 古代人? (@Kikiki93886931) 2022年7月21日
男性埴輪は似たものがもう一体、大和文華館にあるようです。
いい方は高値で美術館。
もう一体は東博かな。
こういうのも調べると面白いですね。
なぜ群馬の埴輪が宮崎名物になったのかも? pic.twitter.com/2j8GczfCpw