週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

記念講演会「さきたま あれから これから」(2019/2/17)

2月17日に埼玉会館大ホールで行われた埼玉県教育委員会主催の埼玉古墳群史跡指定80周年・稲荷山古墳発掘調査50周年・鉄剣銘文発見40周年記念講演会「さきたま あれから これから」を聴講した時のレポート。会場は埼玉会館大ホール。聴講者は約1,200人でほぼ満席。

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最初の記念講演の講師は元興寺文化財研究所の研究員で、40年前の稲荷山古墳鉄剣の保存処理と銘文の表出を担当した西山要一氏。専門の保存科学の話を絡め、鉄剣銘文発見と銘文の表出について当時の話を具体的に紹介していただいた。1978年7月に保存処理のため元興寺文化財研究所に持ち込まれ、サビ止めのため減圧含浸装置でアクリル樹脂を注入、9月にレントゲン撮影で115文字の銘文が発見。銘文の表出はリスクもありそのまま保存すべきとの意見もあった。試しに4文字を表出したとところ、レントゲン写真とは文字の印象も異なり、表出することでわかることもあるとの判断で表出が決まった。金文字がサビの影響で凸凹していて表出は困難を極め、その時の苦労話がリアルだった。

次の記念講演の講師は、2018年に大阪府近つ飛鳥博物館長を退任された白井太一郎氏。埼玉古墳群は5世紀後半から7世紀の東日本で最大級の古墳の規模で、稲荷山古墳はその古墳群中で最も古い前方後円墳。調査当初は横穴式石室を想定していたが見つからず、後円部頂の浅いところから2つの埋葬施設が見つかった。稲荷山古墳鉄剣は、後円部頂の平坦面の西寄りの礫槨から出土、平坦面の南寄りの粘土槨は盗掘されていた。くびれ部から出土した大量の須恵器(5世紀4四半期ごろ)と、礫槨から出土した馬具のf字形鏡板付轡(5世紀後半ごろ)、三鈴の鈴杏葉(5世紀末から6世紀初めごろ)から、5世紀後半と考えられる古墳の築造に対して、礫槨の年代は5世紀末ないし6世紀初頭ころと考え、稲荷山古墳の(墓主の)中心的な埋葬施設は、後円部頂平坦面の中央部の未盗掘部分にあるのではないだろうかとする。辛亥年は471年として、稲荷山古墳の被葬者とこの剣を作らせたヲワケの関係を検討。ヲワケを被葬者とする説は「天下を佐治し」の銘や、礫槨の主が墓主でないことから考え難く、族長の意を受け杖刀人としてヤマトに上番した礫槨被葬者がヲワケから剣をもらう状況が想定できるとする。また、江田船山古墳の横穴式石室の遺物の年代を三相に分けて考え、ほぼ同形同大の3例の鉄剣が鎺(はばき)本孔を持つことなどから、墓主を古相(5世紀後半ごろ)、有銘鉄剣を新相(5世紀末葉ごろ)と考え、鉄剣を作らせた典曹人ムリテと新相の遺物を伴う被葬者との関係を、舶載の装身具類などの遺物が朝鮮半島や中国との交渉・交易を示し、中央で外交を担当する大伴氏と有明海沿岸の豪族の関係から、中央豪族の族長ムリテから有明海沿岸地域の在地豪族に有銘鉄剣が与えられたとする。

最後に西山氏と白井氏に元埼玉県教育委員会職員の高橋一夫氏と今泉泰之氏を加えた4名による座談会が行われた。最初に50年前の発掘調査に学生として参加した今泉氏が、調査は埼玉大学國學院大学の学生が担当したこと、当初は愛宕山古墳が調査対象だったが直前で稲荷山古墳の後円部に変更されたこと(前方部は戦前に削平されていた)、稲荷山古墳の主体部(埋葬施設)は将軍山古墳と同じ横穴式石室で南東に開口すると考え4本のトレンチを4mの深さまで掘ったが何も出なかったこと、後円部墳頂を削ったら30cmぐらいで粘土槨が見つかったこと、墳頂のトレンチの端に2つほど河原石がありボーリング棒で叩いたら礫槨に当たったとのことなどを話された。次に西山氏が40年前の銘文発見の経緯を、高橋氏が現代の名工と鉄剣の複製を作製したときの話を、白井氏が鉄剣銘文発見の意義を話された。最後に、埼玉古墳群が古墳公園として整備され、国宝の鉄剣が現地の博物館で展示されていることは、埼玉県として全国に誇れることであるとともに、まだ、解明されていないことが多くあるとの認識が示された。

文献

[1] 堤克彦 2010『「江田船山古墳」の被葬者と「鞠智城」築城の背景をさぐる

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