週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

七輿山古墳 藤岡市上落合

七輿山(ななこしやま)古墳は、6世紀代の古墳としては東日本最大級の前方後円墳。全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の高さ16m。三段築成。6世紀前半の築造。

南東から。右手前が後円部、左奥が前方部。周囲には二重の周溝が巡る。
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後円部。
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後円部の中段に石仏が林立する。すべて首がない。明治の廃仏毀釈のときに首をはねられたとか。
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後円部の墳頂から下界を見下ろす仏像。こちらの首もはねられている。
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後円部の墳頂からくびれ部。
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くびれ部から後円部。
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前方部の墳頂。
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前方部の墳頂からくびれ部。
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前方部の北側の一段目から二段目と墳頂。
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北西から。前方部。
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北東から前方部。
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北から後円部。
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北からパノラマ。右が前方部、左が後円部。
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七輿山古墳の北側の周堤上に陪墳の美土里村51号墳(円墳)がある。
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七輿の門。
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2018年春、地中レーダー探査装置を活用した非破壊調査で、後円部中央付近で横穴式石室を確認。全長は従来より5m大きい150m超と判明。デジタル3次元測量で得られた形状から築造は6世紀の第2四半期と絞り込まれた。同時期の古墳としては、継体天皇の墓とみられる大阪府高槻市の今城塚古墳(約190m)に次ぐ2番目の大きさとなる可能性がある。また、継体天皇と姻戚関係にあった尾張氏との関係が指摘されている名古屋市の断夫山古墳(約150m)と同規模となった。調査は藤岡市早稲田大学、県立歴史博物館の合同。市教育委員会文化財保護課の軽部達也課長は「被葬者はヤマト王権の直轄地てある緑野屯倉を治める使命を帯びた有力者。または大きな力を持った豪族、上野毛氏の誰かと推測される」と話す。(上毛新聞のネットニュースより)

桜の季節に再訪した。

群馬県藤岡市|七輿山古墳

文献

[1] 東京新聞編集局 1993「古墳を歩く」

[2] 早稲田大学東アジア都城シルクロード考古学研究所 2020 『群馬県藤岡市 七輿山古墳の測量・GPR調査早稲田大学東アジア都城シルクロード考古学研究所

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