週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

港区高輪二丁目発掘調査現場見学会 (7/13) 港区高輪

7月13日に開催された港区高輪二丁目の港区泉岳寺駅地区埋蔵文化財発掘調査(港区No.119遺跡・No.218遺跡)の見学会に参加(見学)した。JR東の高輪ゲートウェイ駅前の再開発事業に伴う発掘調査で、江戸期の東海道護岸や、一帯の埋め立て工事に伴って築かれた石積みなどが確認されているとのこと。今回の見学会では、国指定史跡「高輪築堤第7橋梁」の陸側対岸の車町河岸(くるまちょうかし)に関連する護岸(港区No.119遺跡の明治時代以降の石積み)と、調査で出土した遺物等が公開された。遺物の展示では、刻印煉瓦がいくつかあった。品川白煉瓦、小菅集治監の桜花章(2種類)、東京市電気局(荒川区立尾久図書館の館内に展示された刻印煉瓦と同じタイプ?)、丸の中に「つ」?など。

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品川白煉瓦については

小菅集治監の煉瓦については、文献[2][3]や

東京市電気局(東京都交通局の前身)の煉瓦については、文献[1]や

高輪大木戸跡
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史跡 高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)

所在地 港区高輪二丁目19番地

指定 昭和3年2月7日

高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。

江戸の南の入口として 、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

天和二年(1682)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外ともに江戸の六大高札場の一つであった。

京登り、東下り伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海の景色もよく月見の名所でもあった。

江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。

四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。

平成5年3月31日建設 東京都教育委員会

文献

[1] 江東区地域振興部文化観光課文化財係 2013「東京市電気局 深川倉庫跡採取の煉瓦」『下町文化』NO.260

[2] 野口孝俊、他 2015「明治期に建設された東京湾砲台群における煉瓦の調達に関する一考察―第二海堡跡煉瓦構造物調査―」土木学会論文集D2(土木史), Vol. 71, No. 1, 1-10

[3] 葛飾区 2017 「第2章 葛飾の歴史|第7節 明治時代|葛飾の近代化―レンガ工場」『 子ども葛飾区史葛飾

[4]  港区教育委員会(同事務局教育推進部図書文化財文化財係) 2022 『概説 高輪築堤』港区教育委員会

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