成田山新勝寺の東京別院の深川不動堂。「深川のお不動様」と親しまれている。江戸時代の中期、生活にゆとりのできた江戸の商人が盛んに成田詣をするようになり、成田山が庶民信仰の対象として高い人気を得るようになった。歌舞伎の名跡の市川團十郎丈の初代團十郎丈は子供に恵まれず、成田山の不動明王に祈願し、二代目團十郎を授かった。市川家は代々篤く成田山を信仰し、屋号を「成田屋」とした。1703年(元禄16年)に成田山の本尊の不動明王像を富岡八幡宮の別当寺である永代寺で公開する第一回目の出開帳が行われた。出開帳はその後もたびたび行われ大いに賑わったと伝えられている。1868年(明治元年)の神仏分離令で永代寺は廃寺となったが、不動尊信仰はやまず、1878年に現在地に成田不動の分霊を祀り「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。1881年に本堂が完成。成田山の本尊の不動明王像は弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わり、京都の高雄山神護寺に奉安されていたが、将門の乱で将門の調伏を命じられた真言宗の高僧寛朝大僧正が神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修した。