週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

「壬申の乱と関ヶ原の戦い」本郷和人 (その3)

昨日の続き。慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの東軍の総大将は徳川家康。西軍の総大将は一昔前は石田三成、最近は毛利輝元とされるが、著者は豊臣秀頼とする。攻める家康の勝利条件は大阪城支配下に置き秀頼が手中にあることを天下に示すこと、清洲会議羽柴秀吉が三法師を抱き上げたパフォーマンスと通じる。三成は、大垣城、南宮山、松尾山の三拠点を連携する防衛構想を立てた。家康は赤坂に陣を構えた。赤坂は大垣城より西にある。三成の戦術は稚拙で、西軍の二人のエース(立花宗茂と小早川秀包)を舞鶴市の田辺城と大津城の攻略に差し向けた。小早川秀秋(北政所の甥)が松尾山に入ると、家康は真田攻略に手間取る秀忠率いる本隊を待たずに戦いを仕掛ける。大垣城の三成は笹尾山に、宇喜多秀家は天満山に布陣する。関ヶ原の戦いは、西軍に囲まれた中に東軍が突撃する構図だが、実際に関ヶ原で戦った西軍は、石田三成宇喜多秀家小西行長の軍勢のみ。南宮山の毛利秀元の軍勢は動かず。どちらにつくか最後まで迷っていた松尾山の小早川秀秋が動くと一挙に均衡が崩れ、勝負は一日で決した。三成は捕縛され、大阪城毛利輝元黒田長政福島正則の書状を受け大阪城を退き、家康は大阪城に入り勝利した。

【合戦の経過】関ケ原町歴史民俗資料館

著者は、幕府成立時期について、鎌倉幕府室町幕府では修正が提案され広く受け入れられているのに対して、徳川幕府の成立時期が修正されていないのは近世史研究者の怠慢と指摘。鎌倉幕府成立は1180(治承四)年説、江戸幕府は1600年説を唱える。また、家康の論功行賞を解説して、家康が幕府を京都に開かなかった理由を考察。秀吉の外交重視・重商主義政策(朝鮮出兵)から内政拡大・重農主義(関東・東北の開発、鎖国儒学重視)への転換を理由とする(壬申の乱に通じる)。

最後にまとめとして、日本は外圧が歴史を動かすとして、外国との関わりに大きな歪みが生まれた時、世の中に大きな混乱が生じ、都の権力に対して立ち向かう勢力が台頭して、関ヶ原での戦いを引き起こし、また、当時の日本には「都(都会)と雛(田舎)」を分けて評価する価値観があり、西国と都が権力を掌握していて、都の秩序に異議を唱える人たちは東から攻め上がって来て関ヶ原で都の政権とぶつかったと整理する。鎌倉幕府(東)は軍事力では朝廷(西)を凌駕したが国づくりの理念やシステムは朝廷が握っていた。青野ヶ原戦いで朝廷が負け足利尊氏が京都に幕府を開いたが、東の荒くれ者が戦いを挑む構造は存続した。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸に幕府を開き東国中心の国づくりを進めたことで化政文化が開花、東の荒くれ者が戦いを挑む構造が終焉を迎えたとして、もし、太平洋戦争の終戦時にポツダム宣言の受託が遅れたら、九州に上陸する米国軍と、北から攻め込むソ連軍によって日本が米ソの代理戦争の舞台となり東西分断国家として三関(さんげん、愛知関、鈴鹿関、不破関)が東西の境界になったと想像する力を持つことも大切だと締める。

さて、筆者は、壬申の乱の不破と南北朝時代の青野ヶ原と戦国時代の関ヶ原が同一地域であることに着目して、その意義を解く。日本を二分する戦いは滅多になく、筆者は、日本の歴史に大きな変化が少ない理由として多神教をあげ、宗教戦争がほとんど起きず、その結果、穏やかで緩やかな国情から世襲という慣習が生じ、現代でも続いているとする。古墳時代の古墳が近年まで削平を免れたのも同様の理由であろう。未来に残したいと思う反面、新型コロナ禍や天変地異(天候異常や地震などの災害)における世襲政治家の弊害に嘆く日々を過ごす身としてこれで良いのかと思う気持ちも強い。かといって人々の不安や闇の心理に漬け込む勢力の台頭も気がかり。

終わり。

東西冷戦の象徴のベルリンの壁
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