昨日の続き。青野ヶ原の戦いは暦応元年・延元三年(1338)正月に北畠顕家(きたばたけあきいえ)が率いる奥州の軍勢と室町幕府との間で行われた合戦。南北朝時代は本郷教授の専門で、gacco の講義では、敵味方が入り乱れて分かり難く大河ドラマの舞台になったのは1回のみ(「太平記」1991年)で世間では馴染みが薄いが、人間味が溢れ研究対象としては興味深いというような話をされたと思う。6年前なのでかなり記憶は曖昧。
青野ヶ原の戦いに至る経緯は「北朝の天皇を戴く足利尊氏が京都を占拠したため、後醍醐天皇は(中略)吉野に立て籠もり、南朝を樹立。しかし、味方する武士は少なく、奥州の軍勢を率いて西上してくる北畠顕家が唯一の希望だった。京都奪還を目指す北畠軍。両者は青野ヶ原で激突します。結果は、幕府軍の辛勝でした。」と書かれている。青野ヶ原の戦いの勝敗は一般には北畠軍が室町幕府軍に勝ったとされるが、著者はその見立てを否定する。北畠軍の目的は京都奪還で、その目的は果たされず、伊勢に転進、伊賀から大和に出るが高師直の軍勢と合戦になり敗北。顕家は堺に回り、そこでの合戦でも敗北して自害(戦死)。貴族が戦死するのはそれまでの常識では考えられないという。貴族とは宮廷貴族(公家)のことか。坂上田村麻呂に代表される武官や、国香流桓武平氏や清和源氏に代表される武家(軍事貴族)は除外されているのであろう。
旧暦5月22日は、尊崇する北畠顕家卿が和泉阿倍野で戦死した日。顕家卿は戦死直前に「北畠顕家上奏文」七箇条を後醍醐天皇に送った。二十歳の奥州鎮守府将軍が南朝治政の腐敗を痛烈に諫めた命をかけた諫言の書。この二十歳の青年の怒りと正義感が伝わってきます。これを読み30年前の初心に戻ります。 pic.twitter.com/4CC0sP6u6d
— 福田充 Mitsuru Fukuda (@fukuda326) 2020年5月22日
顕家の戦死を受け、父の北畠親房は伊勢の大湊から船で常陸に上陸して筑波山に近い関城、大宝城を拠点とし、『皇統正統記』を記す。
筑波山(茨城県つくば市)の男体山山頂はあまり展望が良くないものの、コマ展望台からは眺められなかった下妻方向の展望は貴重。現在の小貝川の流れのあたりにかつて騰波ノ江が広がっていた一帯。 pic.twitter.com/zj57ZV1qhZ
— 産鉄族 (@santetsuzoku) 2019年10月7日
本書では、青野ヶ原の戦いの歴史的意義を南北朝の戦いにけりをつけ、将軍権力が確立、武士の世が到来とする。鎌倉幕府は、主従制度的支配権(御恩と奉公)のみで統治権的支配権(武士の政治)はなかったが、室町時代になると初代将軍・足利尊氏は弟・直義を副将軍として政治を任せたことで主従制度的支配権と統治権的支配権が統合して将軍権力が形成されたとする。これが将軍権力の二元論。
明日が最終回。