週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

「壬申の乱と関ヶ原の戦い」本郷和人 (その1)

2018年2月に発行された祥伝社新書の「壬申の乱関ヶ原の戦い」を紹介する。著者は東京大学史料編纂所本郷和人教授。2014年に gacco.org の無料の講義「日本中世の自由と平等」で、講師を務める本郷教授を初めて知り、初心者にもわかりやすく面白い講義をされる方だと思った。本郷教授は中世政治史が専門。奥様も同業の研究者。本書の「はじめに」によると、5回目の関ヶ原探訪で徳川家康が本陣を置いた桃配山(ももくばりやま)で「壬申の乱に際して、大海人皇子(おおあまのみこ)が兵に桃を配った故事に由来する」との説明書きを見つけ、それまで、壬申の乱関ヶ原(当時は不破)の関係を知らず、多くの文献をあたって勉強して、『壬申の乱の不破(ふわ)=南北朝時代の青野ヶ原(あおのがはら)=戦国時代の関ヶ原』で行われた戦いがその後の歴史を大きく変えたと知り、「なぜこの地で戦うのか? その戦いがなぜ歴史を大きく動かすのか?」との謎に対する答案を本書にまとめたとのこと。なお、桃配山の故事は日本書紀などに記されておらず謎らしい。

【壬申の乱】関ケ原町歴史民俗資料館

本書では、「壬申の乱以降、敵は常に東から来ると考える」当時の人々の「日本観」から「(明治維新以前の)日本はひとつではない」ととき、「日本の東西が雌雄を決する戦いの決戦の場所の有力候補が関ヶ原であった」とした。また、戦争の定義と目的を確認して、呉座勇一さんのベストセラー「応仁の乱」で「応仁の乱にはこれといった目的がなかった」との解釈に物言いをつける。

壬申の乱(672年)は、簡単に書けば、白村江(はくそんこう)の戦い(663年)の大敗の後に、近江遷都(667年)の強行した天智天皇崩御(672年)後の後継争いで、子の大友皇子(近江朝廷)と弟(兄説あり)の大海人皇子が争い、蟄居中の熊野から移動して領地のある美濃の安八磨郡(あはちまのこおり)の湯沐邑(ゆのむら)の蹔(わざみ)に本営を置いた大海人皇子鈴鹿道と不破道を塞ぎ、尾張の兵と金生山(きんしょうざん)で産する赤鉄鉱で生産された武器を得て勝利を手中にし、翌年(673年)に天武天皇として即位。この成功により、和蹔(不破、関ヶ原)が戦略上の重要地点であることを認識した天武天皇は、北陸道越前国の愛発関(あらちのせき)、東海道伊勢国鈴鹿関(すずかのせき)、中山道美濃国不破関(ふわのせき)を三関(さんげん)と定め、大事の際に防御を固める「固関(こげん)」の儀式を定めた。この三関より東が関東で、関東はその後、箱根関(はこねのせき)の東まで後退する。蝦夷が後退したのは知っていたが関東まで後退していたとは知らなかった。

安八磨郡には願成寺古墳群(願成寺西墳之越古墳群?)がある。願成寺西墳之越古墳群は岐阜県最大級の群集墳で現在111基もの古墳が見つかっている。ほとんどの古墳が、6世紀末から7世紀初頭以後に築造。壬申の乱とほぼ同時代。

天智天皇陵は治定されている山科陵(御廟野古墳)で間違いないとされる。形状は八角墳。大正時代に上円下方墳として明治天皇陵以降の天皇陵の手本にされた。天武天皇陵は持統天皇との合葬陵として治定されている檜隈大内陵(野口王墓古墳)で問題ないとされる。

願成寺西墳之越古墳群 | 岐阜県揖斐郡池田町

長くなったので、明日に続く。

f:id:kofunmeguri:20200710093635j:image

千葉県には、大友皇子壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びたとする伝説が伝わる。君津市白山神社弘文天皇(大友皇子)と菊理媛命を祀り、壬申の乱で敗れた大友皇子上総国田原の郷まで落ち延び再度の戦に破れ、この地で自害したと伝える。

f:id:kofunmeguri:20200710223151j:image

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村