週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

東京煉瓦工場跡 足立区宮城

みやぎ水再生センターの向かいで建売住宅の建築前に掘られた地面の穴を覗いたら土の色が煉瓦色。文献[1]によると、明治初め、宮城村で下川馬次郎氏によって煉瓦の製造が始められた。その後、荒川沿いの堀之内、小台大門、宮城、本木や対岸の豊島、船方、尾久の村々で続々と煉瓦工場ができた。みやぎ水再生センターのある宮城1丁目には、川崎工場、千葉第二工場、千葉第三工場、宮本工場があった。宮城2丁目に下川馬次郎氏の工場があった。1907年(明治40年)、1910年の水害を教訓として、1911年に放水路の建設が開始されると、荒川沿岸にあった煉瓦工場の大半が取り払われることになった。下川工場は大正10年頃に工場を閉鎖、宮本工場は大正5年頃に江北煉瓦と改名してその後は数年で解散、川崎は大正初め頃に閉鎖、残った千葉第二・第三工場は大正6年に東京煉瓦に買収された。文献[3]によると、東京煉瓦は明治30年に鹿浜で創業した。東京煉瓦の創業には、千葉勝次郎が設立当初から取締役として関わっていた。千葉勝次郎は明治20年に千葉第一工場を創業。千葉第一工場は放水路の予定地にあり大正初めに操業を停止している。千葉工場は東京駅の赤煉瓦駅舎の建設で化粧煉瓦を供給した工場の一つとされる。千葉第二・第三工場を買収した東京煉瓦は鹿浜から宮城に移転して、工場設備はホフマン式輪窯(40万個/週)2基と平窯(容量2万個)、横抜成形機(10馬力)と近代設備を整え、販売先には東武鉄道等があった。

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東京煉瓦の社宅の跡地で1953年(昭和28年)に開園した東京白百合幼稚園
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昭和55年頃まで宮城ファミリー公園の辺りに煉瓦塀があったようだ。
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下川煉瓦については

荒川放水路の開削で立ち退きになった煉瓦工場については

隅田川の対岸の煉瓦工場については

みやぎ水再生センターについては

梶原の渡船場については

東京駅の煉瓦については

東京煉瓦らしき刻印は

千葉煉瓦らしき刻印は

文献
[1] 阿出川信孝 1974「足立の煉瓦産業」『足立史談』74〜76号
[2] 竹内清和 1988「足立周辺の赤煉瓦工業の変遷」『足立史談』245号
[3] 足立区立郷土博物館 1992「炎のなかから生まれた近代 文明開化とあだちの煉瓦」
[4] 足立区立郷土博物館 2000「足立区風土記稿 地区編3 江北」足立区教育委員会
[5] 佐藤貴浩 2018「はい!文化財係です。Vol.1 煉瓦と足立」『足立史談』605号
[6] 佐藤貴浩 2022「東京煉瓦株式会社の所在地について」『足立史談』653号

緊急事態宣言の解除を受け、古墳巡りの再開を検討中。

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