北区の豊島5丁目団地の周辺に分布する鍰煉瓦(からみれんが)を探して歩いた。豊島5丁目団地は、1972年(昭和47年)から翌年に竣工した公団住宅で、千葉県袖ヶ浦市に移転した日産化学工業王子工場の跡地に建設された。日産化学工業王子工場は、1895年(明治28年)に設立した合資会社王子製造所(翌年に関東酸曹株式会社に改組)が始まり。関東酸曹は1897年に硫酸工場を、翌年に曹達(ソーダ)・晒粉(さらしこ)工場を竣工。曹達はナトリウム化合物。晒粉はカルキ(塩酸、次亜塩素酸ナトリウム)。1907年(明治40年)に事業を拡大して型銅と化学肥料の製造・販売を開始、翌年に製銅工場を竣工。型銅は定型的な加工用の素材。この頃、関東酸曹は、製銅で生じる副産物の鍰(からみ)を型で固めた「鍰煉瓦」を「鐵煉瓦」という商品名で製造・販売していたと考えられている。鍰煉瓦の製造・販売のピークは1916年(大正5年)から翌年にかけてで、第一次世界大戦(1914-1918年)後の不況の影響で、その後は急減。関東酸曹は製銅事業から撤退した。鍰煉瓦の大きさには大型・中型・小型がある。大型は、長さ約45cm、幅約22cm、高さ約16cm、重量は約57kg。中型は、長さ約35cm、幅約18cm、高さ約16cm、重量は約36kg。小型は、長さ約23cm、幅約12cm、高さ約11cm、重量は約10kg。
なお、関東酸曹(日産化学)の公害問題と隅田川沿いの煉瓦工場と古墳削平と須賀線について改めて記事を書きたい。全てが絡み合っている。
豊島5丁目団地
豊島公園の「豊島ドッグ」の説明板の「産業考古学探索路」の地図に関東酸曹と須賀線が記されている。
飛鳥山博物館で展示されている日産化学の前身の「大日本人造肥料株式会社王子工場」の絵葉書
外階段の下に鍰煉瓦
十字路にいけず石の鍰煉瓦
駐車場の塀を守る鍰煉瓦
消火器の下に鍰煉瓦
掃き溜めに鍰煉瓦
ゴミ集積所に鍰煉瓦
タイヤで守られた鍰煉瓦
道端に鍰煉瓦
敷地の境に鍰煉瓦
塀の基礎に鍰煉瓦
裏側にも
塀の基礎に鍰煉瓦
道端に鍰煉瓦
道端に鍰煉瓦
塀の基礎に鍰煉瓦
土留めに鍰煉瓦
入口に鍰煉瓦
擁壁の基礎に鍰煉瓦
花壇に鍰煉瓦
鉢植えと鍰煉瓦
消火器の下に鍰煉瓦
消火器の下に鍰煉瓦
大谷石と鍰煉瓦
鉢植えと鍰煉瓦
漬物石と鍰煉瓦
自転車の車止めに鍰煉瓦
道端に消火器と鍰煉瓦
敷地を取り囲むように鍰煉瓦
消火器と鍰煉瓦
駐車場の隅に鍰煉瓦
T字路の角に鍰煉瓦
玄関脇に2個の鍰煉瓦
路地の入口に鍰煉瓦
垣根の基礎に鍰煉瓦
塀の基礎に鍰煉瓦
若宮八幡神社
敷地の角を守る鍰煉瓦
庭先に鍰煉瓦
家の周りに3個の鍰煉瓦
鍰煉瓦に興味を持つきっかけになったのは下記の記事。
以前、関東酸曹のあった豊島5丁目の「天狗の鼻」と呼ばれた地形の突端のダイダラボッチの塚について記事を書いた。
文献
[1] 大久保幸治 1981「鍰煉瓦の話」『足立史談』160号
[2] 北区立中央図書館 2013「北区こぼれ話第47回 からみ煉瓦の謎を追う旅」『北区の部屋便り』第48号
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