週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

人類学について調べた

坪井正五郎博士について調べたので『人類学』についても調べてみた。人類学は英語ではAnthropologyで、ギリシャ語のanthropos(人間)とlogos(知識, 学問)の合成語。人類学は生物種としての「ヒト」について、ヒトとは何かを科学的に追求する学問。人類学は総合的な性格を持ち、追求の方法は多様。

紀元前5世紀の古代ギリシアヘロドトスは「歴史」(Historiae)で数多くの民族の風習を記載して、身体と文化を含む人間集団の単位をエノトス(ethnics, 民族)と呼び、これが民族学(Ethnology, ethnics + logos)の語源になる。

15〜18世紀の大発見時代にヨーロッパでは世界各地の地理的知識や各地の人間の身体形質、風俗習慣の知識が飛躍的に増大。リンネは肌の色による人類分類(白色人種, 黄色人種, 黒色人種, 赤色人種)を試み、ブルー メン バッハは5種類(コーカサス変種, 蒙古変種, エチオピア変種, アメリカ変種, マレー変種)に分類し、人種学が成立した。

人体の解剖学的、生理学的知識は、16世紀のベザリウス、タイソンの人体解剖、17世紀のハーベイの血液循環の発見による生理学の確立。これらは形態学、比較解剖学、生体人類学、生理人類学などを発達させた。

ラマクルは、動物が水中から陸上に移ったこと、単純なものから複雑な体制のものに変化すること、環境が習性に影響し習性の変化が形態を変化させること、器官の使用は発達を不使用は縮小化をさせることを論じ、人類は四手類(サル類のこと)のうちのある種が二手類(人類のこと)になったと考えた。ダーウィンは「種の起原」で変異に対して自然選択が働き種が変化するという進化のメカニズムの考えを論じ生物進化論に決定的な影響を与えた。また、「人類の起原」で、ヒトは類人猿のサブグループから派生し、誕生の地はゴリラやチンパンジーの住むアフリカ大陸の可能性が高いとした。

ルネッサンス以降、ギリシャ、ローマの文化遺物の調査と古代文化研究が盛んになり、考古学が成立した。17〜18世紀に石器が発見され、ラボックは打製石器を使う旧石器時代磨製石器を使う新石器時代に区別した。また、古い化石人骨の発見も相次いだ。1856年にドイツでネアンデルタール人骨、1868年にフランスでクロマニヨン人骨、1886年にベルギーでスピー人骨、1891年にジャワでピテカントロプスが発見された。これらは先史人類考古学、古人類学、人類進化論などを発達させた。

1839年にパリ民族学会が、以降、ロンドン(1843年)、ニューヨーク(1842年)に民族学会が設立され、文化史と身体形質の総合研究を目指した。

1859年にパリ人類学会が、その後、ロンドン(1863年)、マドリッド(1865年)、モスクワ(1866年)、東京(1884年)に人類学会が設立され、形質的の研究が発達した。

人類学は、自然人類学(Physical Anthropology)と文化人類学(Cultural Anthropology)の2大領域で構成される。人類学は総合科学であると主張しながらも、2大領域のそれぞれの発達から生じる統合力の弱さは否定できない。ただし、日本の人類学を立ち上げた坪井正五郎博士は帝国大学理科大学に人類学教室を開設し、自然人類学を基礎としながら、発掘調査(考古学)や風俗調査など文化人類学の領域を切り開き、まさに総合科学としての人類学の確立を目指していた。

文化人類学には先史考古学が含まれる。考古学(Archaeology)は、アメリカでは人類学の一部とされ、ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学(prehistoric archaeology)」という学問領域があり、日本では歴史学の一分野と見なされることが多い。

文献[1] 富田守 1991『人類学 -ヒトの科学-』

本郷弥生町出土弥生土器(レプリカ、東京大学総合研究博物館所蔵)

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