週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

野地久保古墳 白河市本沼野地久保

泉崎村との境界に近い白河市の丘陵地の標高約340mの斜面にある野地久保古墳。2004年の調査で石室の床石と環状の石組みを検出。2008年の調査で、7世紀中期~8世紀初頭に築造された上円下方墳と確認。上円下方墳は、カラト古墳(奈良県京都府)、清水柳北1号墳(静岡県)、武蔵府中熊野神社古墳(東京都)、天文台構内古墳(東京都)に続いて5例目。一辺約16mの方形の上に、直径約10mの円形の土盛り。

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2008年12月03日河北新報

現地調査した国立歴史民俗博物館岡田茂弘名誉教授は「一帯を整備すれば、典型的な上円下方墳が姿を現すはず。国史跡に指定されてもおかしくない」と評価。工藤雅樹福島大名誉教授は「北関東から、当時の大和勢力の北端だった阿武隈川河口までの区域で、最高位の人物が白河地方にいた証拠となる」と述べた。

被葬者について岡田名誉教授は「白河地方出身で、中央政界で活躍した人物では」と推定。福島県考古学会の鈴木啓顧問は「続日本紀の769年の条に靱大伴部連(ゆげいおおともべのむらじ)という白河地方の軍事貴族の名がある。この人の父か祖父かもしれない」と語った。

と報じた。

野地久保古墳は、舟田中道遺跡、下総塚古墳、谷地久保古墳とともに白河舟田・本沼遺跡として国の史跡に指定されている。

白河舟田・本沼遺跡群【しらかわふなだ・もとぬまいせきぐん】 | 白河市公式ホームページ

白河舟田・本沼遺跡群 文化遺産オンライン

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