二子の地名の由来になった古墳。すでに湮滅している。二子塚公園に1915年(大正4年)建立の「二子塚舊磧」と1968年(昭和43年)建立の「史蹟二子塚之碑」がある。はっきりしないが60m以上の前方後円墳だったらしい。1915年には削平されていた可能性がある。「舊」は「旧」の旧字体。
「史蹟二子塚之碑」の裏面に刻まれた二子(塚)の由来
大正の中ごろこの二子塚より勾玉耳環などが発掘され溝口の喜樂翁の手を経て県庁に納められたが大正十二年関東大震災に死失したという
伝えられるところによれば旧八王子街道には一王子村より八王子村まであって其の内ニ王子村が現在の二子(村)になったという桓武天皇の直裔高望王の八王子口碑と合わせて伝えられている其の後今を去る四百年前の天正十年甲斐の国伊奈四郎勝頼公の家士小山田備中の守嫡子小山田小次郎宗光は勝頼公が天目山に自刃した後当地に来て二子元屋敷に居を構えたという
昭和四十三年五月五日 二子第五町内会長 吉崎キン
「溝口の喜樂翁」とは林喜樂氏のことで、1934年の文献に掲載された写真の林氏の前にある五鈴釧が二子塚古墳出土のものと記載されている。五鈴釧の出土から築造年代を推定すると6世紀前半頃になるらしい。
文献
[1] 川崎市市民ミュージアム 1996『加瀬台古墳群の研究I 加瀬台8号墳の発掘調査報告書』
『二子塚舊蹟(旧跡)』
— 古墳にコーフン協会 (@kofun_ni_kohfun) 2021年2月25日
かつてはここに古墳があったんですねぇ。 pic.twitter.com/pmRq9tUzJ2
すぐ近くには別の碑もありました。ここも二子塚古墳跡ですね。(奥のバスは何かしら???) pic.twitter.com/Ck4CXdj9sA
— 古墳にコーフン協会 (@kofun_ni_kohfun) 2021年2月25日