週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

根岸古墳群 川崎市多摩区枡形

小田急線向ケ丘遊園駅の西方約700m、多摩川の沖積低地に臨む細長い丘陵の上にある根岸古墳群。標高は約56m。5基の円墳からなる。古墳時代終末期の7世紀後半から8世紀頃の築造。

1号墳。円墳。径11.5m、高さ1.6m。
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2号墳。円墳。径11.3m、高さ1.6m。
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3号墳。円墳。東西径約14m、南北径約14.8m、高さ1.8m。
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4号墳。円墳。東西径約18.5m、南北径約19m、高さ2.2m。
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5号墳。円墳。径10m、高さ1.1m。
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東側の入り口。
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西側の三峯神社
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根岸古墳群では1951年に森幸一専修大学助教授によって発掘調査が行われ、出土資料の一部が専修大学に保管されている。1952年に発行された「川崎市社会教育要覧」に掲載された概要によると、「生田町1585番地山林所在古墳」として、「府県道荏原、登戸線敷設工事により当該地域から土砂採取のため丘陵端部切取作業中礫槨の露出を見るに至った。よって、福永、森両氏等が古墳の湮滅せぬ中に、露出礫槨と接続の小円墳の発掘調査をおこなうこととなった。」「昭和26年7月27日より同月30日までの4日間を以て一応発掘を終了」、出土品は「露出礫槨墳-碧玉製管玉1個、水晶切子玉7個、黒色練小玉16個、南京玉51個、小形提瓶1個、須恵器把手1片、土師器皿破片、鉄器数片(刀子破片カ)など小円墳-(内部構造礫槨墳)大形提瓶1個(破損、封土中より発見)直刀1振(破損)」と記載されている。「露出礫槨墳」と「小円墳」が2基の古墳を意味するのか、1基の古墳で露出礫槨を小円墳の羨道部と捉えるのかは不明。文献[4]に引用された1953年の測量図では現存する5基の古墳の東側に1951年に調査した古墳を記した分布図が示されている。文献[2]にも5基の古墳を測量した分布図があるが、1953年の測量図とは微妙に異なる。また、1951年に調査された古墳は現存する5基の古墳のうち最も東にある1号墳とする点で異なる。

1951年の調査当時、教育委員会にいた小塚光治氏の著書「川崎史話」には「昭和26年8月、生田の府中県道を広げるため多摩丘陵の先端を削り取っているうちに、思いがけず古墳のひとつが掘り崩されました。それに続く円墳は地元の専修大学によって発掘されて、根岸古墳と称され祝部土器や直刀の断片が出ました。もともとはここのすぐ下を多摩川が流れていたので、きれいな玉石を積んで槨をこしらえてるのが特徴です。舌状台地の先端に合計6基並んでいて、奈良朝中〜末期ごろのものです。」と記されている。また不鮮明な古墳内部と直刀を写したと思われる写真1枚を掲載する。

川崎市教育委員会:根岸古墳群

生田根岸1-2-3-4-5号墳-多摩区No.63遺跡【神奈川県川崎市】 - ぺんの古墳探訪記

文献

[1] 小塚光治 1987「川崎史話」桐光学園教育研究所

[2] 佐藤善一・伊東秀吉 1989「川崎市内の高塚古墳について−現状確認調査を踏まえて−」『川崎市文化財調査集録』24 川崎市教育委員会
[3] 川崎市市民ミュージアム 1992「遺跡ガイドブック -かわさきの古墳めぐり-」川崎市市民ミュージアム

[4] 土生田純之・浜田晋介・小林孝秀 2002「根岸古墳出土遺物について」『川崎市文化財調査集録』38 川崎市教育委員会

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