週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

白山神社古墳 君津市俵田

小櫃公民館からバスで南に3分。小櫃川中流域右岸の標高50mの丘陵西端部に立地する白山神社古墳。前期の前方後円墳。全長89m。周辺の水田面との比高は約20m。墳丘形態から前期(4世紀代)古墳と推定。古墳の脇に白山神社を祀る。御祭神は弘文天皇(大友皇子)・菊理媛命白山神社の社伝によれば、天武天皇14年(685)勅使が下向し社殿を造営して弘文天皇を祀り、田原神と称されたという。伝説では、壬申の乱に敗れ、上総国田原の郷まで落ち延びた大友皇子は、再度の戦に破れ、この地で自害したと伝えている。

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南から右が後円部、左が前方部。
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南から後円部。後円部の中央に窪みあり。
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南から前方部。
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西から前方部。
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東から後円部。
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後円部の東側の陪塚。明治31年に発掘され獣形鏡・直刀が出土。
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白山神社古墳/千葉県

日本書紀』では、壬申の乱において最後の決戦の舞台となった琵琶湖の南、瀬田橋で、大敗を喫した大友皇子はその後敗走を続けて「山前に身を隠し、自ら首を括って死んだ」と記されている。大友皇子が自害した場所は、京都府大山崎町とする説と近江大津京を見下ろす長等山(ながらやま)とする説が知られる。その他に、琵琶湖西岸の鞍掛神社、瀬田の西の御霊神社と茶臼山古墳、さらには愛知県岡崎市(大友天神社、小針古墳)、神奈川県伊勢原市(雨降院石雲寺内伝大友皇子陵)、千葉県君津市白山神社)にまで逃げ延びたとの説がある。

文献

[1] 房総の古墳を歩く編集委員会 2006『房総の古墳を歩く 改訂版』芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会

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